愛知県内に現在も残る5つの一里塚のひとつで、名古屋市内では唯一残っているもの。一里塚は1604(慶長9)年に徳川幕府が街道を整備し、一里(約4km)ごとに塚を築き、その上に木を植えて道しるべとしたもの。笠寺一里塚は、東海道の江戸から88里目にあたり、塚の上にエノキの大木が植えられている。大正時代までは道の西側にもムクノキが植えられた対をなす塚が残っていたが現存しない。
本業窯は登窯の一種で本業製品(江戸時代後期になって瀬戸に登場した「新製焼」の磁器に対し、旧来からの陶器を本業と呼ぶ)を焼成した窯。全長14m、最大幅7m。3つの焚き口、4つの部屋を有する連房式登窯だ。洞地区で唯一現存するものは昭和24年に再建された窯。昭和54年5月以降焼成をしていないが、次の焼成のための松割木(燃料)、窯道具のツク、タナ板などが備わっている。瀬戸本業窯自体は、江戸時代から続く窯元で、人間国宝・水野半次郎さんの工房だ。今は息子さんの水野聡一郎氏が本業焼を継承している。見学は自由(工房にひと声かけて見学を)。「窯垣の小径」の北端に位置するので散策途中にぜひ立ち寄りたい。
常滑の登窯は1834(天保5)年に導入され、明治時代の末には60基もの登窯があったといわれている。残念ながら現在するのは昭和49年まで現役だった「陶栄窯」1基のみ。平野藤蔵を代表とする33人の窯仲間によって造られた陶栄窯は歴史遺産として大切に保存され、自由に見学することができる。10本のレンガの煙突があり、両端は高く中心は短くなっているが、これは通気性を利用して窯の隅まで均一に焼くことができるようにした工夫。
知多半島には弘法大師を祀る寺や岩屋寺(百日修行を行なったと伝えられる寺)などゆかりの寺が各地にあるが、実は、空海(弘法大師)は814(弘仁5)年(空海41歳の時)、諸国行脚の途中に三河から船で大井浜に上陸したと伝えられている。大井漁港の沖に浮かぶ二子島に立てられた弘法大師上陸像を眺める聖崎の磯には上陸地の碑も立てられている。この地に上陸した空海は、医王寺に滞在。現在も、知多半島に350寺もの寺を数え、「巡礼の地」として知られるのは空海上陸の歴史と、四国に似た温暖で風光明媚な土地があったから。
徳川3代将軍家光が造営を発願。完成は1651(慶安4)年、4代将軍家綱の時代で、日光東照宮を模して建てられた本殿は、江戸初期の建築法を残す貴重なものとして、国の重要文化財に指定されている。この地を選んだのは、家光が日光東照宮を参拝した際の縁起に、松平広忠の奥方(於大の方)が鳳来山に籠もり薬師如来に祈願して、家康が誕生したと記されていたことによると伝わる。鳳来山東照宮は、子授けでも信仰を集め、また、日光、久能山とともに「三東照宮」とも称されている。
1560(永禄3)年5月19日、小勢の織田信長が今川義元の大軍を破った古戦場で国の史跡。東海道では池鯉鮒(知立)宿と有松宿の間に位置するが、両軍とも東海道を通ってはいない。1809(文化6)年、秦鼎の撰文により津島の神主・氷室豊長が建てた『桶峽弔古碑』に「永禄3年、駿侯西征のため、5月19日桶峽の山北に陣す、織田公奇兵を以って之を襲い、駿侯義元を滅す」の一文がある。2万5000の兵をもって2000の織田軍に敗れ、首を討ち取られた義元の墓周辺は小さな公園として整備されている。近くの高徳院境内に今川義元本陣跡があり、その背後の丘陵を信長は駆け下って奇襲したとも伝えられているが定かではない。

