明治28年、松山中学校の英語教師として、月給80円で赴任した漱石は、城山山裾の愛松亭から松山市二番町上野義方邸内の2階建ての離れに転居。その下宿が愚陀仏庵で愚陀仏は漱石の別号だ。療養のために帰郷した正岡子規が一時居候し、50日ほどともに暮らした場所でもある。建物は戦災で焼失したが、1階部分を萬翠荘敷地内に復元している。
托鉢行乞(ぎょうこつ)の旅を続けていた自由律俳人の種田山頭火は、昭和14年(57歳)、四国遍路の旅の果てに松山の御幸寺境内に庵「一草庵」を結び、「おちついて死ねそうな」場所だからと、終の住処とすることを決める。山頭火の愛した道後温泉にも近い「一草庵」で、酒と句作三昧の日々を過ごし、本人の予言よりも10日生き延びて昭和15年10月に生涯を閉じた。現存する「一草庵」は昭和27年の再建。庭には句碑「おちついて死ねそうな草枯るる」が立てられている。
松山が生んだ近代俳句の祖、正岡子規。子規堂は子規が17歳で上京するまで住んでいた旧宅を子規の菩提寺・正宗寺境内に復元したもの。堂内には子規の子供時代の勉強部屋を再現したコーナーがあり、愛用した勉強机が置かれている。子規堂前の広場では、現存する最古の軽便機関車の客車「坊っちゃん列車」が展示されている(機関車は伊予鉄道本社ビル前に展示)。子規堂南側には、鳴雪先生髯塔と子規居士髪塔もある。
新居浜市の旧別子地区は別子銅山全盛期の明治時代には1万人を超える人口を擁した鉱山町。大正5年に主要な鉱山施設が新居浜へ移動するとともにその大部分は廃墟となってしまった。旧別子銅山跡と呼ばれる廃墟は日浦地区から銅山越を越えて嶺北角石原に出る所要2時間30分のハイキングコース途中にある。コース入口から銅山越までのルート沿いに鉱山街跡や小学校跡、測候所跡、劇場跡、歓喜坑など往時を偲ぶものが数多く残されている。
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