
掛川城の天守。4階の望楼が小さいのは初期の天守閣の特徴だ
1590(天正18)年、小田原城に籠城していた北条氏直が降伏し、豊臣秀吉の天下統一が実現する。同年、秀吉は信頼を寄せる一豊を掛川に配し、関東に転封した家康に睨みをきかせる。一豊は掛川5万石の城主と出世するのだ。10年間という、一豊自身が最も長い期間城主として過ごした掛川は、城割(城の設計)はもちろん城下町の町割りまで一豊の考えが取り入れられている。現在の掛川城は平成6年に、日本初の本格木造天守として高知城を参考に復元されたもの。どうして高知城を参考にしたのかといえば、高知城は石高の割に小ちんまりとした天守で、掛川城の建築技法をそのまま踏襲したのではと推測されているからだ。

復元された掛川城大手門(一の門)。奥に見えるのが大手門番所
天守閣から東南に250m行った場所にあるのが大手門。掛川城の正面玄関にあたる門で、これも天守閣同様、一豊が建築を命じたもの。長らく場所が定かでなかったが発掘調査で、全貌が判明、復元されている。門の北側には江戸末期の建築物である大手門番所が保存されている。城内に出入りする人を監視した役人の詰所で、現存するのは全国的にも珍しい。

見逃してしまいそうな小さな稲荷だが一豊の気持ちが込められている
一豊が掛川城を大修築する際に、伏見稲荷を大手郭と大手厩の鎮守として勧請したのが三光稲荷。三光とは、太陽、月、星のこと。1336(延元元)年、後醍醐天皇が京から吉野へ御幸する際に、闇夜で難渋したところ、伏見稲荷の社前で祈ったところ、三光に助けられという故事がある。実は新宿(内藤新宿)の鎮守社である花園神社ももとは三光神社。戦国時代から江戸初期には多くの大名が伏見稲荷を勧請したというわけだ。

1847(弘化4)年の再建である山門は東海道に面している
1600(慶長5)年、会津の上杉討伐に向かう家康を一豊が煎茶で接待したのが、掛川の郊外、旧東海道・佐夜の中山(小夜の中山=さよのなかやま)にある久延寺。一豊がこの数日後、石田三成が佐和山城にて打倒家康を盟友・大谷吉継に打ち明けているからまさに煎茶1杯で一豊の将来が決まる大事な時間だったに違いない。NHK大河ドラマ『功名が辻』では、千代が一豊に家康方につくことを強く勧めた結果という描き方をしている。

島田宿の大井川川越遺跡。東海道沿いに川会所などが並び往時の雰囲気が残されている
掛川が江戸に睨みをきかせる地というのは、単に東海道の真ん中に位置するというだけではない。掛川から佐夜の中山を越え、牧之原台地から金谷坂を下ると金谷に出るが、その先に横たわるのが大井川。「箱根は八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」(『箱根馬子唄』)と唄ったのは箱根の馬子たち。馬子とは馬を引いて馬の背で荷物を運ぶ馬方のこと。小田原〜三島間の箱根八里は東海道の難所といわれたが、その箱根八里は、大井川よりもましだよと馬子たちは唄ったわけだ。大井川の両岸にある島田宿と金谷宿は、江戸時代、大井川の川止めで栄えた宿場町。川越えの困難さは想像以上で、増水による川止めの最長記録はなんと28日にも及んでいる。つまり、掛川はこの天然の要害を東に配していたわけだ。

家康最後の陣跡は、陣場野という地名になって残っている
徳川家康が上杉征伐のために伏見城を出陣したのは1600(慶長5)年、6月18日。掛川に到着するのは6月24日のこと。佐夜の中山で一豊の饗応を受けた後、その日は島田に宿泊。翌日は鞠子(丸子=まりこ)で中村一氏の饗応を受け興津の清見寺に宿泊している。その後、鎌倉の鶴岡八幡宮で戦勝祈願の後、有名な「小山評定」は、7月25日。ここで石田三成の挙兵に対抗し反転して、諸将を上方に向かわせることを表明する。NHK大河ドラマ『功名が辻』では、ここで一豊は掛川城の明け渡しを家康に提言し、忠義を示している。


