
それぞれの陣屋が、丘陵や入り江など自然の地形を活かして配されていた様子がよくわかる
1590(天正18)年、関東・奥州を平定し事実上の天下統一を果たした豊臣秀吉は、その足がかりとして、まずは東松浦半島の名護屋に築城指示を出す。筑前・博多なども渡海拠点の候補地として名前が挙がっていたが、天然の良港をいくつも抱えること、壱岐(いき)・対馬を中継地にして半島へも渡りやすいという点から、肥前・名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋)に落ち着いたという。

広沢寺の境内には秀吉の側室であった広沢局の墓や秀吉専用の扉、加藤清正が朝鮮から持って帰ってきたと伝わる、樹齢約400年の大ソテツが残されている
1591(天正19)年9月、全国の諸大名に対して動員令が下されると、名護屋城の周りには諸大名の陣屋が置かれ、それまで何もなかった名護屋の地に、最大で20〜30万人ともいわれる人々が暮す一大城下町が出現した。諸大名は約7年、秀吉自身も1年数ヶ月と長く滞在したことから、この特需を当て込んだ大坂・堺や博多の商人も多数集まり、店や飲み屋などが軒を連ねたという。こうして城下町には、戦時の陣中とは思えないほどの物資があふれていた。また当時は絢爛豪華な桃山文化が花開いた時代。それだけに、名護屋城だけでなく各大名の陣屋でも盛んに茶の湯や能、歌会が催されていた。その中心的存在だったのが、この山里丸だ。

巨大な軍事基地・名護屋城には、おびただしい数におよぶ諸大名の陣屋が存在した。その範囲は名護屋城跡を中心に、名護屋浦から波戸岬一帯の半径3kmほど。陣屋の数はおよそ130以上(一説には200を超えるとも)。徳川家康、前田利家、石田三成、伊達政宗などが陣を敷いた跡も残されている。
19世紀の作成にはなるが、名護屋城博物館所蔵の配陣図によれば、その配置の仕方は秀吉との力関係が多分に考慮されたものとか。1592(天正20)年4月に始まった文禄の役において、朝鮮の熊川城築城を担当することになる上杉景勝は、5000人を率いて名護屋入りしたという。

前述した上杉景勝の陣跡にぴたりと寄り添うかのように残されているのが、直江兼続の陣跡。しかし、仮にも当時56万石の上杉景勝など大名の陣屋ならわかるが、なぜか家臣である兼続の陣屋も、大名並みに大きかったことが縄張などから判明している。佐賀県立名護屋城博物館によれば、130m×150mというからかなりの規模だ。景勝の陣跡と同じく、兼続の陣跡も私有地のため内部は見学できないが、「歴史探訪の道」の案内板近くから遠望するか、あるいはどうしても内部を見学したい場合は、名護屋城博物館が主催する「史跡探訪会」に参加してみる、というのもひとつの手だ。

上杉景勝、直江兼続の陣跡は、名護屋というより波戸岬に近い位置にある。せっかくだからこの際波戸岬まで足をのばしてみよう。波戸岬は、一帯が玄海国定公園に指定された景勝地で、駐車場を降りると目の前が砂浜の海水浴場。また岬をめぐる遊歩道も整備されており、先端には水深7mに展望室を設け、熱帯魚など海中の生物を観察するユニークな「玄海海中展望塔」もある。玄海灘に沈む夕日が美しい場所として、カップルにも人気のスポットでもある。

名護屋城の陣跡と波戸岬散策を堪能した後は、呼子から唐津へのドライブを楽しみたい。というわけで、ランチには断然呼子名物の活イカ料理がおすすめだ。なかでも、呼子漁協近くの海岸端にある「河太郎呼子店」は、このあたりでイカの活き造りを最初に始めたという、元祖の店。海を望む小上がりの中央に生け簀があり、注文を受けてから板前がイカをすくってさばくというシステムだ。

呼子から唐津へは、国道204号の海岸線を走り、唐津中心部へ。時間に余裕があれば、途中七ツ釜や立神岩などの景勝地に立ち寄ってもいい。そして、城下町エリアに着いたらまずは唐津城へ。県道279号沿い、唐津市営の東城内駐車場目の前にあり、車利用の場合は交通至便だ。この唐津城を築城したのは、唐津藩初代藩主となった寺沢高広。朝鮮出兵(文禄の役)の折りには、加藤清正とともに名護屋城築城の普請奉行を務めて秀吉の側近となり、名護屋一帯を治めた人物。しかし関ヶ原で東軍に属したため生き残り、しかもその功により加増されている。


