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NHK大河ドラマ『天地人』ゆかりの地を訪ねて、新発田・新潟・佐渡へ

大坂城で秀吉との対面を果たした後、越後に戻った上杉景勝・直江兼続主従は、新発田城攻略に乗り出す。1587(天正15)年10月、秀吉の後ろ盾を得た上杉軍は、約7年にわたり反乱を続けていた新発田重家をついに討ち果たし、越後国の支配を盤石のものとした。1589(天正17)年には秀吉の命により佐渡国を平定し、その後佐渡の鉱山支配も任されている。こうして上杉は、新潟の川湊と佐渡の金銀山という、国運営には欠かせない舟運の拠点と財源を確保して行った。

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新発田城本丸の表門。石垣の技術は全国屈指という

築年時期は定かではないが、かつては「馬足不叶(かなわず)」といわれるほどの低湿地帯で、石垣を支えることができないため、石垣でなく土塁で築かれたという新発田城(しばたじょう)。この天然の要害を代々居城としてきたのが、「阿賀北=揚北衆(あがきたしゅう)」、つまり阿賀野川以北に割拠した国人衆(地頭から発した地方豪族)のひとり、新発田氏だ。

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朱鷺メッセの展望室から新潟市街を眺める。信濃川の流れも変わり、もとは砂洲の町にできたとは思えない変貌ぶりだが、往時の面影も残る

幕末には5大港のひとつとして開港地にも選ばれた新潟港。この時は、信濃川河口に位置するという地の利がかえってあだとなり、諸外国には、巨大な船舶の接岸に不向きな港、とみなされていた(河口に位置するため港に大量の土砂が堆積し、巨大な外国船が接岸するための水深が足りない)。しかし中世から近世においては、「川湊・新潟」の利用価値は絶大であった。

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堅牢な六連アーチの萬代橋。周辺には遊歩道も整備されており、散策に最適

現在の新潟は、湾という地形ではなく信濃川の砂州にできた川湊という側面もあり、いわゆる典型的な港町という印象を受けない。しかし、万代島にある「朱鷺メッセ」の展望室から全体を俯瞰し、ボードウォークを歩けば、その印象も変わる。信濃川が注ぐ日本海や港湾基地を眺めていると、まさに港町そのものの風情を味わえるのだ。

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佐渡汽船に乗って両津港へ


上杉景勝の時代、佐渡国は越後とは別の国で、守護代・本間氏の支配下にあった。本間氏は、相模にルーツをもつ国人衆(鎌倉時代の地頭から発した在地武士)のひとり。一族を各地に配置して佐渡全域を支配した。しかし同族間での内紛が後を絶たなかったという。その中で最有力だったのが、北佐渡の河原田本間氏と南佐渡の羽茂本間氏。「御館(おたて)の乱」で越後の盟主となった景勝は、この群雄割拠した佐渡領有を目論むが、秀吉は自らの裁定による天下統一のため、「惣無事令」により大名間の私戦を禁じた。

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小木の南端・沢崎集落にある景勝地が矢島・経島。
狭い入江や岩礁でも小回りがきく「観光たらい舟」の上からこの海岸美を楽しめる

佐渡南端に位置する小木半島は、本間一族が佐渡を支配していた頃、上杉景勝によって滅ぼされた羽茂本間氏の勢力下にあった。その小木の名が広く世に知られるようになるのは、江戸時代。金山経営のために佐渡は幕府の直轄地となるが、その積み出し港として、天然の良港で対岸にある幕府の直轄地・出雲崎(いずもざき)にも近い小木港が選ばれたのだった。そして1672(寛文12)年、幕命を受けた豪商・河村瑞賢によって西回り航路が開かれると、小木はその寄港地としてもにぎわった。

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