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新発田重家終焉の地・新発田城

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新発田城本丸の表門。石垣の技術は全国屈指という

築年時期は定かではないが、かつては「馬足不叶(かなわず)」といわれるほどの低湿地帯で、石垣を支えることができないため、石垣でなく土塁で築かれたという新発田城(しばたじょう)。この天然の要害を代々居城としてきたのが、「阿賀北=揚北衆(あがきたしゅう)」、つまり阿賀野川以北に割拠した国人衆(地頭から発した地方豪族)のひとり、新発田氏だ。

新発田氏は、鎌倉幕府に派遣された近江・佐々木氏に連なる有力豪族で、新発田・新潟一帯を治めた。上杉謙信が越後を統一した頃、新発田氏は謙信の臣下扱いとなるが、揚北衆はもともと独立性が強い集団。ゆえに景勝と景虎が上杉家の後継を争った「御館(おたて)の乱」では、同族同士で敵味方に分かれて戦った。この時新発田重家は景勝側に付き、かなりの戦功を挙げたという。


ところがその後、働きに比した加増はなく、景勝の直臣・上田衆のみに手厚い結果となった。このため重家は、処遇に不満を募らせていく。そんな重家に、この機に乗して越後侵略を目論む会津の蘆名盛隆らが接近。同じく越後に手をのばさんとする織田信長とも内通。1581(天正9)年、彼らの支援を得て、新発田重家は反乱を起す。つまり景勝はこの時、まだ越後一国を統一できていなかったのだ。


下越からは新発田勢、北陸、信濃からは織田勢に攻められ、上杉はまさに八方ふさがりとなる。しかし本能寺の変により事態が急変、一時的に上杉は窮地を免れた。だが、その後も蘆名氏らの支援を受けた重家とは、長く膠着状態が続く。

ドラマでは小泉孝太郎演じる樋口与七が、天神山城主・小国氏を継ぎ、小国実頼(のちに大国実頼)となった後の1583(天正11)年、天神山城(現在の新潟市西蒲原区岩室)から新潟津を攻め立てるも、結局景勝軍は撤退。古くから周辺を支配していた重家は、地形を熟知した上に船上戦にも強く、また城の周囲は馬の足もとられるほどの低湿地帯で、容易に攻めることができなかったのも一因という。


しかし秀吉が事実上の天下人となり、1586(天正14)年に上杉景勝・直江兼続主従も上洛。秀吉の臣下となったことで新発田討伐の許可を得た上杉軍は、1589(天正17)年、1万の大軍をもってようやく新発田重家を滅ぼし、難攻不落の新発田城もついに落城した。
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新発田川の支流を引き入れて外濠とした、旧二の丸隅櫓。
湿地帯を好むアヤメがみごとなことから、別名「菖蒲城」とも呼ばれていた

現在の新発田城は、1598(慶長3)年、初代新発田藩主となった溝口秀勝が旧城地に築城したもの。中世の最後に造られた城だが、実戦的というよりむしろ政治経済の中心としての機能が大切にされた縄張り(城造り)が施されている。


注目は、石垣がすき間なくかみ合うように積まれた石垣。そして巡らされた美しい塀。現在は、国の重要文化財に指定された本丸表門と旧二の丸隅櫓が残るのみだが、平成16年には、実質的な天守にあたる三階櫓を復元。新発田藩10万石の居城として、藩政時代の雰囲気が残されている。



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