プチたび > 特集 > 『天地人』の舞台へ 福島・会津若松編

特集
NHK大河ドラマ『天地人』ゆかりの地を訪ねて、福島県会津若松へ

1598(慶長3)年、上杉家は越後を離れ、会津に国替えとなる。徳川家康等への牽制の意味も込め、五大老に列せられていた景勝を奥州の要として配したといわれる。この頃既に景勝の名代として政務一切を仕切っていた直江兼続は、秀吉の死により来る戦に備え、領内の支城や朝日軍道の整備など、軍備増強に追われた。領内の要衝には、向羽黒山城跡や兼続が道半ばで断念した神指城(こうざしじょう)跡がなどがあり、往時をしのばせる。

09070901.jpg

復元された若松城天守閣

1384(至徳1)年、蘆名氏7代当主・蘆名直盛(あしななおもり)が初めて館を築いたという黒川城(鶴ヶ城の前身)。1589(天正17)年、蘆名氏との抗争を続けていた伊達政宗が会津に侵入、一度は黒川城を手に入れるが、その後豊臣秀吉による奥州仕置(奥州諸大名への領地再分配)で、会津領を没収された。代わって会津の領主となったのは、秀吉の腹心で、近江がルーツの蒲生氏郷(がもううじさと)だ。

09070902.jpg

向羽黒山城跡


会津美里町にある標高408mの山城跡が、向羽黒山城跡(むかいはぐろやまじょう)。あまり知られていないが、国の史跡にも指定された東北最大級の山城のひとつで、築城したのは、中世この一帯を支配した蘆名氏16代当主の蘆名盛氏(あしなもりうじ)。蘆名氏は、相模(現在の神奈川県横須賀市芦名)にルーツをもつ鎌倉幕府の御家人で、戦功により会津北部に領地を得たという。その蘆名氏の全盛期が、16代の盛氏の頃。

09070903.jpg

神指城跡

1598(慶長3)年8月18日、豊臣秀吉が亡くなると、五大老・上杉景勝も激動の世に飲み込まれる。そんな中、直江兼続が指揮官となって築城が始まったのが、鶴ヶ城(若松城)の北西4kmに位置する神指城(こうざしじょう)。『新編会津風土記』によれば、1600(慶長5)年2月、景勝の命により、阿賀野川を天然の堀とする会津盆地の中心地・神指原に、新城築城が指示されたという。

09070904.jpg

野口英世通りに面した蔵造りの福西本店。ルーツは堺で、蒲生時代に会津に移住。会津漆器のほか、白会津木綿や桐製品なども並ぶ


上杉景勝が会津若松を本拠とした期間はわずか2年足らず。しかも幻の城・神指城の周りに城下町を拡張する予定だったという。現在の城下町・会津若松の基礎が作られたのは、蒲生氏郷(がもううじさと)の時代。近江国蒲生郷日野出身の蒲生氏郷は、信長の娘・冬姫をめとり、秀吉の腹心としても活躍。1590(天正18)年、小田原攻めの後、秀吉の命により伊勢国松ヶ島(松坂=現在の三重県松阪市)から陸奥国会津に移された。

09070907.jpg

「喜多方蔵の里」の蔵群。左から旧猪俣家穀物蔵、勝手蔵、座敷蔵

城下町会津若松を堪能したら、ひと足のばして蔵の町・喜多方へ。全国に蔵の町は数あるが、明治維新後の煉瓦建築の蔵を主体とした蔵の町は、実はあまり多くはない。そんななか、「日本一の煉瓦蔵の残る町」といっても過言ではないのが、この喜多方。ではなぜ会津盆地の小さな町・喜多方に煉瓦造の蔵が多く残っているのかといえば、そのキーワードは「登り窯」。

1
Powered by Movable Type 4.261

特集一覧

このカテゴリについて

このページには、『天地人』の舞台へ 福島・会津若松編の記事が10件ずつ表示されています。

『天地人』の舞台へ 福島・会津若松編のイベント情報とガイド記事は『天地人』の舞台へ 福島・会津若松編のインデックスページで見られます。

特集の記事は特集のインデックスページで見られます。

特集のすべての記事は特集のアーカイブページで見られます。