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上杉景勝の会津時代の居城・鶴ヶ城(若松城)

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復元された若松城天守閣

1384(至徳1)年、蘆名氏7代当主・蘆名直盛(あしななおもり)が初めて館を築いたという黒川城(鶴ヶ城の前身)。1589(天正17)年、蘆名氏との抗争を続けていた伊達政宗が会津に侵入、一度は黒川城を手に入れるが、その後豊臣秀吉による奥州仕置(奥州諸大名への領地再分配)で、会津領を没収された。代わって会津の領主となったのは、秀吉の腹心で、近江がルーツの蒲生氏郷(がもううじさと)だ。


1592(文禄元)年、黒川城に入場した蒲生氏郷は、町の名を黒川から若松に改め、城郭と城下町の整備に着手。1593(文禄2)年には7重の壮大な天守が完成、自らの幼名にちなんで城の名も鶴ヶ城に改めた。その後城主は、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明、加藤明成と目まぐるしく替わる。


上杉家が国替えとなり、景勝が会津入りしたのは、1598(慶長3)年3月のこと。国替えの命を受けたのは1月10日だから、秀吉の死の約7ヶ月前(8月18日に秀吉死去)。まさに真冬だが、当時秀吉の信頼も厚かった蒲生氏郷が40歳で急死。代替わりした当主が若く蒲生家が内紛状態となったため、奥州の要が不安定になることを恐れた秀吉は、徳川家康や伊達政宗の抑えとして、上杉に会津を託したといわれる。


会津に佐渡出羽庄内を加えた120万石に加増されたが、上杉家にとっては実質減収だったとの話もある。旧領地と比べ、出羽の最上氏によって領地が分断されていたのも、経済効率が悪くなる一因となった。


ともあれ、この国替えの指揮をとったのも、家老・直江兼続であった。秀吉のもとから派遣された石田三成とともに、越後から会津への移動を行なったという。今でこそ新潟〜会津若松間は磐越自動車道が通じているが、当時の峠道を想像すると考えられない大移動。しかも雪国の冬に強制移封とは、いかにも酷。時まさに風雲急を告げるといった状態で、豊臣政権としてはやむを得ない選択だったのかもしれない(奥州の要ということだけでなく、上杉を地縁の強い越後から分断することで、その力を弱めるという狙いもあったのかもしれない)。


結局、その後は徳川家康の天下となり、上杉は出羽・米沢に大減封。のちの1643(寛永20)年、出羽の山形城より3代将軍・徳川家光に縁の深い保科正之(ほしなまさゆき)が入城し、以後は明治維新まで親藩・会津松平家の居城となる。


明治7年に陸軍により城内の建造物は大半が処分となり、本丸の「御三階」のみ阿弥陀寺に移された。現在の天守閣は昭和40年に復元されたもので、その見本は寛永時代の城とされる。天守閣内部の1〜4階は「鶴ヶ城博物館」として、文化財や工芸品を展示。最上階にある展望台からは、会津平野が一望のもと。


ちなみに2009年9月19日から11月15日には、大河ドラマ「天地人」にちなんだ企画展『「天地人」会津の上杉景勝と関ヶ原の戦い』を開催。関ヶ原のきっかけともいわれる「直江状」の写しなどを展示する予定だ。また会津での景勝の活躍がわかるCGシアター「幻の神指城と会津」も公開中。

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