平成3年〜5年に発掘調査が行なわれた平塚川添遺跡一帯を整備した公園。筑後川の支流、小石原川の氾濫によってできた平地にある多重環濠集落(たじゅうかんごうしゅうらく)で、2000年前の弥生時代中期から1700年前の古墳時代までのものと推定されている。集落を幾重にも取り囲む環濠には水をたたえ、環濠を渡る橋、竪穴住居、祭壇、弥生の森などが発掘調査に基づいて復元されている。園内には勾玉(まがたま)作りや火起こしなど、古代の体験ができる学習室もある。
モンゴル帝国・5代皇帝フビライは国名を元と改め、高麗を配下にして日本に通商を求めたが、鎌倉幕府の執権・北条時宗はこれを無視、1274(文永11)年、元・高麗連合軍は3万の大軍を900隻の船に乗せ博多湾西部に上陸する(文永の役)。博多や箱崎は炎に包まれ、筥崎宮も焼失する。神風と伝わる暴風雨で撃退するが、その後の通牒も無視し続けたため再来襲が想定され、幕府は6ヶ月を費やして今津から香椎に至る博多湾の沿岸20kmに石築地(いしついじ)を建造する。今津は大隅国・日向国、今宿は豊前国、生の松原は肥後国、姪浜は肥前国、博多は筑前国・筑後国、箱崎は薩摩国、香椎は豊後国と九州9ヶ国に分担を割り当て突貫工事で完成させたため各担当ブロックにより仕様が異なっている。大隅国・日向国担当の今津地区は、柑子岳麓から毘沙門岳麓まで、現在の大原海水浴場・長浜海岸周辺3kmに、高さ3m、上の幅2m、下の幅3mほどまでに石を台形に積み上げている。
弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡。周辺は野方台中央公園として整備され、野方遺跡展示館が建てられている。今から1800年ほど前の弥生時代後期には径100mと径40mのふたつの環濠を巡らせ、そのなかに竪穴式住居と高床式倉庫が築かれていた。古墳時代の住居跡として100軒以上が確認され、常時30軒ほどの家が建っていたと推測されている。遺跡は昭和48年の春、野方台団地の造成工事中に高校生により発見されたもの。遺跡の中心部が国の史跡として保存されている。
福岡平野の東を流れる御笠川(みかさがわ)に沿ってのびる月隈丘陵(つきぐまきゅうりょう)の標高30mの丘陵上で出土した弥生時代の甕棺墓(かめかんぼ)348基、土壙墓・木棺墓119基、石棺墓2基。甕棺墓は、北九州地方の弥生時代の特徴的な墓で、小児用の数が多く出土している。一般の集団墓地と推定され、人骨も全体で136体が出土し抜歯の風習が確認されるものもあった。昭和43年、桃畑の開墾作業中に発見され、弥生時代の大規模な共同墓地の跡として昭和47年に国の史跡に指定されている。発掘現場に覆屋をかけるようにして展示館が建てられ、見学することが可能。

