正式名は興宗禅寺といい曹洞宗の寺。福岡城築城の際、黒田長政が石垣に古墳の石を使ってしまったので、古墳の霊を供養するために拝殿を建てたのが寺の始まり。拝殿の後ろにある石窟は今から1500年ほど前の古墳の横穴式石室で、石仏が刻まれていることから「穴観音」と呼ばれている。江戸時代の学者、貝原益軒の『筑前続風土紀』によると、穴観音には中心に阿弥陀如来、左右に観音、勢至菩薩が刻まれ、国中には石窟は多いがこれほど大きなものはないので俗に穴観音と呼ぶようになったと解説されている。
戒壇とは僧が守らなければならない規律で、戒を受けなければ正式に僧尼になることはできない。5度の渡航に失敗し盲目となりつつも戒壇を日本に伝えたのは唐僧・鑑真。戒を授ける寺として754(天平勝宝6)年、奈良の東大寺に戒壇を設けた。戒壇院は筑紫観世音寺の西戒壇院として下野(栃木)の薬師寺の東戒壇院と同時に761(天平宝字5)年に創設された古刹。本尊の琉紗那(るしゃな)仏は平安時代の作で国の重要文化財。江戸時代中期以後は藩命により天台宗の観世音寺から離れ、臨済宗博多聖福寺の末寺となっている。
福智山(標高901m)の南麓、上野の里にたたずむ古刹。白鳳年間(奈良時代)に開基し、後に足利尊氏が豊前国安国寺(尊氏が全国66か所に建立した安国寺のひとつ)と定めた。寺宝の千手観音坐像は、無隠元晦(むいんげんかい)禅師が、1352(正平7)年に京都から持ち帰って安置したと伝えられるもので鎌倉時代の特徴を色濃く残している。境内には、尊氏が身を隠したと伝わる洞窟もある。『かもめの水兵さん』で知られる地元出身の河村光陽は、この寺の思い出を『山寺』という曲に残している。
北九州市の南、方城町の定禅寺境内には、県の文化財となった「迎接の藤」と呼ばれる樹齢約520年のフジがある。幹回りが3.5mで四方に伸びた枝は約800平方メートルという巨樹だ。定禅寺は通称「藤寺」とも呼ばれ、「迎接の藤」のほか、珍しい八重咲きのフジやクスノキとカシを宿り木とした「宿り木フジ」があり、例年4月下旬〜5月上旬に美しい花を咲かせる。
741(天平13)年に聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって建てられた国分寺のひとつ。九州東北部一円の文化の中心として栄えたが、戦国時代に戦火により焼失。現在ある建物の大部分は元禄年間(1688〜1704)に小笠原藩の援助で再建されたもの。国分寺の塔は七重塔と決められていたが、現在ある三重塔は明治28年の再建。塔の高さは23.5mで、奈良法起寺と並び三重塔としては日本一の高さを誇っている。周辺は史跡公園となっており、戦火で焼失した講堂基壇跡などが復元されている。
清水寺は、806(大同元)年、最澄(伝教大師)が千手観音像を自刻して創建したと伝わる天台宗の古刹。寺伝では、最長は唐からの帰朝の際に有明海の東方山中に美しく輝く光を発見。その光を求めて訪ねたところ苔むした合歓(ねむ)の霊木。その霊木に一丈六尺(約5m)の千手観音像を刻んだという。本堂には千手観音像が今も安置されるが、安産、子授け、縁結びにご利益がある。山門は1745(延享2)年、柳川藩6代藩主・立花貞則が建立したもので県の重要文化財。本坊庭園は雪舟作と伝わる名園だ。

