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15世紀に創建された臨済宗妙心寺派の寺。1567(永禄10)年、織田信長が斎藤道三の孫の斎藤龍興を亡ぼし美濃に移ると織田信長の祈願所となった。本能寺の変の際、息子・信忠の位牌とともに、彼らの遺品もあわせて埋められた「織田信長父子廟」もある。「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」の名言を残した快川国師は崇福寺三世。また本堂の「血天井」は、関ヶ原の戦いの際に落城した岐阜城の床板。戦死した将兵の霊を慰めるため天井に張ったもので、付着した血痕も残る。

傷ついたシラサギが、羽を休めた松の木の根元で、村人が温泉を発見というのが下呂温泉発見の伝承。木の根元にあった薬師如来像(シラサギは薬師如来の化身だった)を奉っているのが医王山温泉寺で、1671(寛文11)年の創建。土地の人が下呂富士と呼ぶ中根山の裾にあり、温泉街からは173段の石段で上る。薬師如来像を祀った本堂のほか、湯をかけて病気平癒を祈願する湯薬師がある。また境内からは温泉街を一望にする。

平安時代に創建された臨済宗妙心寺派の寺院で、戦国時代に再興された。杉、桧の混交林である禅昌寺一帯の森5.28haは、禅昌寺緑地環境保全地域として大切に保護されている。境内には茶人・金森宗和(かなもりそうわ=金森重近、茶道宗和流の祖)が造園したと言われる名勝指定の庭園「萬歳洞」や茶室、樹齢1200年、樹高40m、幹周12mという国指定天然記念物の大杉などがあり、中国宋朝の様式を伝える伽藍は「天下の名刹」として威容を誇っている。さらに門前の「禅昌寺歴史民俗資料館」には雪舟筆の『大達磨像』や狩野永徳の菊花屏風など数々の貴重な文化財が展示されている。

746(天平18)年に聖武天皇の勅願で全国に創建された国分寺のひとつ。創建時の堂宇は819(弘仁10)年の火災で焼失しているが、創建時の七重塔の巨大な礎石が今も境内に残されている。境内には室町時代築の本堂、高山城から移築されたといわれる鐘楼門、風格ある三重の塔などがある。本堂の1m下には奈良時代の金堂の遺跡が確認されている。本尊薬師如来座像、聖観世音菩薩像(旧国分尼寺の本尊)は国の重要文化財、阿弥陀如来、不動明王は県の重要文化財。また、本堂横の樹齢1200年を数える大イチョウの木は創建当初からのものと伝えられ、天然記念物に指定されている。乳の出ない婦人に授乳の信仰があり、「乳イチョウ」と呼ばれている。ちなみに飛騨の国分尼寺は、高山本線の線路を隔てた辻ヶ森三社(高山市岡本町2-128)で金堂の礎石が発見されている。

山号の虎渓山(こけいざん)の名称は景色が中国江西省の廬山の麓にある絶景の地・虎渓に似ていることに由来。1313(正和2)年に土岐頼貞の招きで夢窓疎石が虎渓庵に滞在し開山したのが永保寺。1314(正和3)年建立の観音堂(本堂)は円覚寺(鎌倉)の舎利殿と同様に鎌倉末期の唐様建築の代表的遺作で国宝。1352(観応3)年築の開山堂(僊壺堂=せんこどう)もやはり国宝だ。観音堂前の庭園は、夢窓疎石の作庭した代表的な庭園のひとつで国の名勝。臥竜池(心字池)に屋形のある反り橋の無際橋がかかり、 禅林風名庭の典型となっている。

801(延暦20)年、最澄(伝教大師)が桓武天皇の勅願により創建した古刹で、22もの国の重要文化財を蔵して「美濃の正倉院」と呼ばれている。本尊の薬師如来坐像をはじめ、大日如来坐像、四天王立像、十二神将立像、深沙大将立像、金剛力士立像など必見の仏像が数多い。1800(文化12)年、甲斐国・御正体山(現・都留市)の洞窟で断食し入定したという舎利堂の妙心上人の舎利仏(ミイラ)は有名。秋は周囲の山とともに境内に植えられた紅葉も美しく色づいて、多くの人が訪れる紅葉の名所となり、ライトアップも実施。

798(延暦17)年に豊然(ぶねん)上人が開創し、801(延暦20) 年、桓武天皇の勅願寺となった。本尊は平安時代の作と伝わる十一面観音像だが、秘仏で非公開。本尊を護る毘沙門天立像も平安時代の作で国の重要文化財。明治12年再建の本堂の内陣地下には長野の善光寺と同様のお戒壇めぐりが可能。境内にはここに満願を果たした巡礼者が笈摺(おいずる)を脱いで納める笈摺堂があり、本堂向拝の左右の柱にかかる青銅の鯉に触れて精進落としとする習わしがある。

京都宇治の黄檗山万福寺の末寺で、正式には金鳳山正法寺。境内の大仏殿に、高さ13.7mの如来坐像が安置されている。大仏は1832(天保3)年に38年を費やし完成したもので、木で骨格を組み、竹で外形を造り、粘土で形を作りその上に経典が書かれた和紙を貼り、漆を施し金箔で覆った乾漆仏。この技法では日本一の大きさを誇り、竹を籠のように編んだことから「籠大仏」と呼ばれ親しまれている。胎内には、大仏とともに県の重要文化財に指定される薬師如来像が納められている。予約で普茶料理も味わえる。

戦国時代、甲斐の武田信玄は川中島の合戦による類焼を恐れて、信濃・善光寺の秘仏(善光寺如来=阿弥陀三尊仏)を甲府に建立した甲斐善光寺に移した。天目山で武田勝頼が自刃し、武田家が滅びると、秘仏は甲斐を攻めた織田信長によって岐阜に移された。その時に善光寺の秘仏を安置した場所がここ(伊奈波神社の霊域)。信長の孫・織田秀信が、稲葉善光寺堂を建立し、善光寺如来の分身を祀ったのが始まり。当初は伊奈波神社別当の満願寺と安乗院とによって守られていたが、明治の廃物棄釈・神仏分離で満願寺が廃寺となり、安乗院が岐阜の善光寺となった。本堂は明治24年の濃尾大震災で全焼後、大正初年に再建されたもの。阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の3体は火災を逃れ、往時のものが現存、初詣や2月3日の節分星祭りには多くの参詣客が詰めかける。

1600(慶長5)年、竹中半兵衛屋敷跡に創建した寺で、1688(貞享5)年に芭蕉が1ヶ月ほど岐阜に滞在した時に、この寺を拠点としている。芭蕉が暮らした12畳の座敷(庫裡にある「芭蕉の間」)が現存している。この寺に到着した時の挨拶の句が「やどりせむ あかざの杖と なる日まで」で、境内には句碑が立てられているほか、句碑の横には芭蕉が植えた紅梅も残されている。現存する本堂は、1662(寛文2)年に建てられたもので岐阜市の重要文化財。庫裡は江戸時代前期のものと推測されている。

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