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大正3年から、およそ9年の歳月をかけて造られた全長1314m、幅40mの運河。運河沿いで目をひく大家倉庫は明治期のものだ。大正末期から昭和にかけて小樽がもっとも華やかだった時代には、この運河がはしけで埋まったという。かつては北海道開拓の玄関口で、多くの物資が集散した場所だ。現在では、運河南側の650mが御影石を敷き詰めた散策路になっている。街道に灯が灯る夕暮れどきはムード満点だ。

函館山の西端、函館港を見下ろすひっそりとした高台にある。墓地に葬られているのは、幕末の開港とともに来日し、日本で没した外国人たちで、1854(安政1)年、ペリーが箱館に来航した時に病死した2名の水兵を埋葬したことが、起こりだ。規模は小さいが、プロテスタント墓地、カトリック墓地、ロシア人墓地、中国人墓地など、宗教や国ごとにそれぞれ異なった様式の墓石が見られる。

明治の歌人石川啄木が函館・青柳町(函館公園の北側)で暮らしたのは明治40年5月〜9月までの短い期間だった。その間、離散していた家族を呼び寄せるなど、啄木にとっては、明るく楽しい生活だったといわれている。「おれは死ぬときは、函館で死ぬ」というほど啄木は函館を愛した。明治45年4月に27歳という短い生涯を東京で終えた啄木の遺骨は、節子夫人の希望で大正2年、函館に移され、大正5年に啄木の愛した立待岬に義弟・宮崎郁雨の手で墓碑が建てられた。墓前からは啄木が散策した大森海岸を見渡すことができる。

土方歳三(ひじかたとしぞう)は新撰組副長として近藤勇を助け、のちに幕府主戦派の参謀格として連戦しながら北上。明治元年に現在の茅部郡森町の鷲の木に「開陽丸」で上陸した。蝦夷共和国を立ち上げるという大きな夢を掲げていたが、明治2年に五稜郭の戦で敵弾を受け戦死。壮絶な最期を遂げたと推定される場所、若松町に最期の地の記念碑が立てられている。最期の地には大手町、十字街など諸説あるが『燃えよ剣』を書いた司馬遼太郎や多くの郷土史家などはこの若松町説(旧若松小学校跡地)を採用している。

淡路島生まれの高田屋嘉兵衛は、28歳のとき北前船・辰悦丸で箱館(函館)を訪れた。以後1818(文政元)年に故郷に帰るまで箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、大きな業績を残した。昭和33年に函館開港100年を記念して函館山、護国神社へ続く道(高田屋通)に嘉兵衛の銅像が立てられた。像となっているのは、ロシア軍のゴローニン船長を引き取りに行った時の嘉兵衛の姿で、右手には松前奉行からの論書を、左手には正装に着替えた際に脱いだ衣装を持ち帯刀している。

箱館戦争で死亡した、新撰組副長・土方歳三、中島三郎助父子をはじめ約800人の旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔うために函館山の麓に建立された碑。碧血とは、「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という中国の故事「碧玉」から。碑石は、7回忌にあたる明治8年、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもの。明治初期に賊軍であった旧幕府軍の霊を弔うためには新政府への配慮と大きな英断があったと想像される。6月25日には碑前祭が行なわれている。

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