東京駅の設計で知られる辰野金吾と岩手出身の葛西萬司が設計を担当した赤レンガの建物で、現在でも実際に銀行として使用されている。盛岡中心部のシンボル的な存在で、ルネッサンス様式を基調にした赤レンガタイル張りの中に白い花崗岩の帯があるお洒落な雰囲気はいかにも辰野式。国の重要文化財に指定されている。建物が建つ十字路は「札の辻(ふだのつじ)」と呼ばれ、藩政時代にお触れの高札や藩の布告を掲示する御札所があった場所だ。
中学時代からの友人である堀合節子と19歳で結婚した啄木が、明治38年6月から7月までの3週間を暮らした家。父母、妹との同居で人生は毎日が貧困との闘いだった。ふたりが質素に暮らした四畳半の部屋も現存している。この部屋での生活は随筆『我が四畳半へ』に記されている。「僅か三週の間なりしと は云へ、我が半生に於ける最大の安慰と幸福とを与へたりしかの陋苦しき四畳半」(『我が四畳半へ』)。そんなふたりの新婚生活を偲ぶ節子が愛用した琴なども展示されている。
盛岡市紺屋町は、江戸時代に染め物屋(紺屋)が多く栄えていた町で、漆喰の土蔵や商家、歴史的建造物も数多く残っている。町並みを散策するのにも最適だ。紺屋町番屋は、大正2年に竣工した盛岡消防分団の建物。昔懐かしい望楼は、現在も盛岡消防団第五分団の火の見櫓として、使用されている。 望楼へは屋根裏の螺旋階段で上る仕組み。
南部曲り家は住居と厩(うまや=馬小屋)が一体になり上から見ると鍵形(L字型)になって連結しているのが特徴。千葉家は南部藩を代表する豪農建築で、200年ほど前に建てられたもの。「日本10大民家」のひとつにも数えられている。現在も実際に生活が営まれる家で、民具などが展示された厩部分と、座敷の一部が公開されている。遠野の昔ながらの生活を垣間見ることができる。
渋民尋常小学校は、石川啄木記念館の敷地内に移築復元された石川啄木の母校で、のちに代用教員として啄木が教鞭を執った尋常小学校。旧校舎は、明治17年に建てられたもので、柾屋根造り、連子格子、障子張りなど、地方の明治前期の校舎の面影を遺す建物としても貴重なもの。隣接して啄木が下宿をしていた斎藤家住宅も移築されている。
思惟大橋(しいのおおはし)は、国道45号の松前沢渓谷に架かる橋で、4年の歳月を費やして昭和59年に開通した。谷底からの高さ120m、長さ315mで、逆ローゼ(アーチ)橋としては全国でも有数の規模を誇っている。橋の名は、近くにある「思惟の森」にちなみ名付けられた。橋のたもとには「道の駅たのはた」もある。

