桜島の東岸にある腹五社神社(黒神神社)の鳥居。大正3年の桜島の大爆発で、それまでは完全な島だった桜島は大隅半島が陸続きとなったが、その爆発で腹五社神社参道の鳥居は軽石や火山灰によって笠木部分を残して埋没。高さ3mもあった鳥居は、人の背丈以下になってしまっている。被災時の東桜島村長は噴火の脅威を後世に伝えようと掘り起こすのをやめたため、そのままの形で現在に至っている。神社のあった黒神村687戸も同時に埋没してしまったといい、被害の大きさをイメージする貴重な遺跡となっている。
昭和12年に西郷隆盛没後50年祭記念事業として城山に立てられた銅像。上野公園の西郷像(明治30年・高村光雲作)が着流し姿なのに対して、こちらは陸軍特別大演習(明治6年)のときの軍服姿。鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」で知られる帝展彫刻審査員の安藤照が8年をかけ、高さ8mの堂々たるモニュメントを制作。花が植えられた記念撮影用の撮影台も設置されている。
指宿市内を流れる二反田川のそばにある、薩摩を治めていた島津家の温泉別荘跡。現存するものは1831(天保2)年に第27代藩主・島津斉興によって摺ヶ浜より移設されたもの。かつての浴場跡がそのまま保存され、丸に十の字の島津家の家紋の入った石造りの湯船や当時としては珍しいタイル貼りの部分(これより先は足軽以下のものは立ち入り不可)などが残っているほか、奥には指宿温泉開湯のシンボルでもある「湯権現」が祀られてる。湯権現社の「湯権現」の扁額は、有栖川宮の書。
大正時代に発掘調査が始まった遺跡で火山灰に埋もれたその地層から縄文土器が弥生土器よりも古い時代の土器であることを初めて証明した遺跡。国の史跡となった一帯の2haが史跡公園として整備され、4棟の復元竪穴式住居、貝塚、地層の展示施設が設けられている。874(貞観16)年、884(仁和元)年などの開聞岳の大爆発による火山灰で埋もれた畑や道、家屋の跡などが次々と発見されており「日本のポンペイ」とも呼ばれている。
ライオンズ広場の一角、高見橋のたもとに立つ、大久保利通銅像。大久保利通は、倒幕に貢献し、明治維新後は新政府の中心人物となった。大蔵卿・内務卿などの政府の要職を歴任。西郷隆盛と同じく、鹿児島県出身だが、豪放磊落な西郷さんとは異なり、冷徹非情な人物との評がある。
桜島の南岸、荒磯に面した古里温泉。4軒の温泉宿が並ぶ素朴な温泉地だ。その高台にある古里公園に林芙美子文学碑がある。林芙美子は『放浪記』などで知られる明治時代の小説家。その母・キクが古里温泉郷の出身であることにちなんで建てられた碑には「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」の一節が刻まれている。周辺には細川幽玄、与謝野晶子の歌碑、水原秋桜子(しゅうおうし)の句碑なども見られる。
日本に初めてキリスト教を伝えた、イスパニアのイエズス会の宣教師。東洋布教のためにリスボンを発ったザビエルは、マラッカで鹿児島県出身のアンジローという人物と出会い、1549(天文18)年7月、日本布教のため、鹿児島に来航したという。領主島津貴久の許可を得て、鹿児島での布教を開始したザビエルを記念して、ザビエル公園が造られたが、その一角に立つ記念碑は、太平洋戦争で焼失した記念堂の名残り。園内にはザビエルの胸像もある。
九州最高峰・宮之浦岳をはじめとする険しい山々がそそり立ち、古くから山岳信仰が盛んであった屋久島。大漁や豊作、家内安全、無病息災を祈願するため、いわゆる奥岳(1800m以上の中央山群)に詣でる岳参りは、各集落にとってとりわけ重要な行事だった。春と秋に行なわれたが、女人禁制であったため、女性や子供らは、岳参りから戻った男性たちを詣所(もいしょ)と呼ばれる場所で出迎え、ご馳走をふるまったという。また山の神様を祀った小さな祠には、岳参りできない平時、里における聖地として利用されていた。現在苔むした石塔など、60基ほどが奉納されている。なお、こうした岳参りのためだけでなく、屋久島にはそれぞれの集落ごとに、守り神を祀る小さな祠が見られる。また先祖を大切にする気持ちが強い島民により、代々のお墓には、常に美しい花々が供えられているのも特徴的。
平成20年のNHK大河ドラマ『篤姫』の主人公・天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)が生まれたのが鹿児島城の東北に位置する今和泉島津家屋敷。大龍寺(現在の大龍小学校)の西隣にあった屋敷(本邸)で、1835(天保6)年、薩摩藩で一門四家と呼ばれた重臣、今和泉家・島津忠剛の長女として生まれた。屋敷自体は現存しないが、当時を偲ばせる石垣が残されている。なお、今和泉島津家の領地である指宿市今和泉には別邸跡が残されている。
屋久島の真南に位置する浦崎。1708(宝永5)年、ローマ教皇庁によって派遣されたイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(シドッティ)が、武士に変装して上陸した場所として知られたところ。シドッチは上陸したものの幕府により捕らえられ、長崎から江戸に護送、江戸の切支丹屋敷で激しい尋問を受け、その後獄死した。ちなみにこの時彼の尋問を担当したのは新井白石。徳川6代将軍家宣(いえのぶ)に仕え、のちに朱子学の第一人者といわれた白石は、その後『西洋紀聞』を著わすが、その記述にはシドッチへの尋問をベースにしている部分もあるという。現在、岬手前の農道沿いに、シドッチゆかりのサンタマリア教会が建ち、さらに岬近くの駐車スペースには、シドッチ上陸の記念碑もある。ここで車を停め、岬突端へと続く遊歩道を10分ほど下って行くと、断崖絶壁の海岸に出る。岬が太平洋に突出し、魚釣りのメッカとして知る人ぞ知るポイントでもある。

