「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄う有名な『箱根馬子唄』。馬子とは馬を引いて馬の背で荷物を運ぶ馬方のこと。旧東海道の箱根越えでは畑宿から元箱根にかけて急坂の連続で大変な労苦が必要だった。畑宿から坂道を登りきった平坦地が八丁平(八町平)。馬子がひと息入れた場所で、ここに箱根馬子唄の碑が立っている。ここからは、今も街道時代と変わらず、二子山や駒ヶ岳などが美しく望まれる。車の場合は箱根の森駐車場から徒歩15分。
寄木細工で知られる旧東海道畑宿にある一里塚。畑宿は宿場ではなく立場(たてば)だが、町並みのはずれに江戸から数えて23里目の一里塚が残されている。街道を挟んで両側に塚が残されているが一対のかたちで現存するのは東海道では貴重な存在。平成10年に行なわれた保存整備事業で、高さ4.5m、直径9mという大きさになるように周囲に石積みがあることも判明した。塚の上には江戸から京に向かい左側にケヤキ、右側にモミが植えられていた。
大正9年に東京高等師範(現在の筑波大学)、明治、慶応、早稲田の4校で始まったのが今では正月の恒例となった箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝)。第1回は東京高等師範が優勝するが、箱根を往復すること以外に詳細な決まりはなく、走るコースも自由だったとか。翌年には東京農大、法政、中央を加え7大学となり明治が優勝している。現在では、シード校、予選勝ち上がりチームをあわせ20校が覇を競っている。平成16年が第80回の記念大会になるこの駅伝、目指すは芦ノ湖。ゴールとなる箱根町には記念碑が建てられており記念撮影にも絶好。
元箱根の旧街道杉並木の中に置かれた石碑で箱根にゆかりのあるケンペルとバーニーの功績を顕彰したもの。ケンペルはドイツ人の博物学者で、長崎のオランダ商館長の江戸参府、いわゆる甲比丹(かぴたん)行列に加わり1691(元禄4)年とその翌年に箱根山を越える。日本の植物に分類学の光を当てたケンペルは後に『日本誌』を著すが、箱根でも植物や魚類に関する調査を行なっている。バーニーは明治21年に来日、芦ノ湖畔に別荘を築いたオランダ人の貿易商で、箱根の自然をこよなく愛しその自然を永遠に残そうと呼びかけた。
太閤石風呂(たいこうのいわぶろ)は、宮ノ下を流れる蛇骨川の左岸にある岩盤をくり抜いた石風呂。縦1m、横3mほどの岩穴に、天然の温泉が湧いている。温泉療養に熱心に取り組んだ豊臣秀吉が1590(天正18)年の小田原攻めの際に、持久戦となった将兵の慰労のために造らせた露天風呂だ。風呂とはいえ現在、入浴はできず、渓流部分には道もないので、対岸の車道沿いから眺めるだけとなる。太閤石風呂から3分ほど下った場所には、落差10m、幅3mの太閤の滝がある。
箱根登山鉄道塔ノ沢駅の上りホームのはずれに祀られている銭洗弁財天。大正8年に登山鉄道は開業しているが、銭洗弁財天は大正15年に地元の人の手で建立された。深沢の清流を引き込んでいるのでその名があるが、鎌倉の銭洗弁財天と同じようにひしゃくとざるが置かれ、お金を洗い福徳を祈願することができる。
江の島最奥、海上に造られたコンクリート製の桟道を進んだ先にあるのが、江の島岩屋。役(えん)の行者が開き、弘法大師や日蓮上人も参籠したと伝えられる天然の洞穴で、江戸時代の江の島詣ででは、ここが目的の地であったという。2つの洞穴があり、第一岩屋は奥行き152m、第二岩屋は奥行き112mと日本有数の海食洞。現在では照明完備となっており、入口付近には江の島詣でが全盛時代に歌川広重が描いた岩屋の浮世絵や明治時代の写真を展示。日蓮の寝姿石も残る。
『三国志』でその名を知られる中国の武将、関羽を祀る廟で明治6年、居留民によって、山下町140番地付近に日本で最初の小さな廟が創建されたのがルーツ。関東大震災や戦災で焼失し、現在の建物は、4代目で雲龍石など多くの資材を中国から取り寄せ、工匠職人も北京や台湾から招き、平成2年に完成したもの。武将にとっても商人にとっても一番大切なものは信義・信用という点が関羽を祀るゆえん。商売繁盛、交通安全、入試合格、学問の神様として信仰を集めている。受付で線香・金紙を購入し、本殿回廊にある1〜5番の番号がついた香炉に願い事を告げ、線香を1本ずつ捧げるという参拝法も中国式。神筈(しんばえ)式のみくじにもぜひ挑戦を。
開港後、横浜に居留した外国人の墓地として、横浜の発展に尽くした外国人たちが眠る墓地。もとはペリー提督の艦隊の中の一隻である「ミシシッピー号」の墜死した水兵を葬ったのが始まりで、現在では、40ヶ国、4800人以上が眠っている。小高い丘の上に建つ墓地からは、横浜市街が一望のもとだ。大正期に建てられた正門(山手門)を設計したのは旧丸ビルや山手111番館の設計で知られるJ・H・モーガン。彼もまたこの墓地に眠っている。

