860(貞観2)年創建の古社。木津・宇治・桂の三川の合流点を眼下にする男山の山頂に鎮座し、大分の宇佐神宮(宇佐八幡宮)、鎌倉の鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡社に数えられる。平将門・藤原純友の乱や、元寇の時には朝廷の祈願所となった。天皇・上皇の行幸や御幸は、第64代円融天皇以来、250回を数える。源氏をはじめとする全国の武士の崇拝も篤く、源義家はここで元服。現在の社殿は1634(寛永11)年に3代将軍徳川家光が造営したもので、八幡造りの本殿は国の重要文化財。周囲を180mに及ぶ回廊が囲む立派な造りだ。本殿の棟の間に架けられている「黄金の樋」は、1580(天正8)年、織田信長の寄進。社務所の西の神苑池には八幡の竹をフィラメントとして利用し炭素線電球を発明したエジソンの記念碑もある。毎年9月15日に行なわれる古式豊かな岩清水祭は京の葵祭、奈良の春日祭ととも三大勅祭に数えられている。清和天皇の863(貞観5)年に創始され、朱雀天皇の948(天暦2年)に勅使が派遣される勅祭となった。山上の上院のほかに山麓に下院(頓宮)もある。
菅原道真が大宰府に左遷されるにあたり、在原業平と詩歌管弦を楽しんだ長岡に立ち寄り、名残を惜しんだという。その縁で、道真自作の木像を祀ったのが神社の創始。道真が腰を掛けたといわれる「見返り岩」が残り、見返り天神とも呼ばれている。 本殿は昭和16年に平安神宮から移築したもの。例祭は10月9日。境内の東に広がる八条ヶ池は1638(寛永15)年に造成した灌漑用の溜池で周囲は1kmという広大なもの。南北に細長く続く池の中央を横断する中堤は天満宮の参道で、架けられた石造太鼓橋は加賀前田公の寄進。
1175(承安5)年、法然上人が45歳の時に、庵を結び、初めて専修念仏の教えを説いた地で、「浄土門根元地」といわれている。法然の法弟、熊谷直実が1198(建久9)年に堅田の浮御堂から阿弥陀如来を迎えて祀ったのが寺としての起源で、四条天皇が光明寺と命名。壮大な伽藍は、応仁の乱などの戦火にあったが復興し、現在も32の堂宇が建ち並んでいる。1754(宝暦4)年再建の御影堂(みえどう)、阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂などが回廊で結ばれ、独特の雰囲気を現出。御影堂は、寺の中心となるお堂で、法然上人自作の「張子の御影」を祀っているが残念ながら拝観はできない。1845(天保十六)年築の山門からは真っ直ぐ本堂へと上る石段の表参道と、傾斜がゆるい女人坂に分かれる。女人坂は紅葉参道との別名を持つカエデ類のトンネル。山門から本堂へは京都屈指の紅葉の名所だが、午前中の方が光線状態がいい。
緑豊かな京阪奈の丘陵地に位置する花と緑の公園。熱帯花木温室、洋らん温室、鉢花温室の3つに分かれた「観覧温室」、花蓮やカキツバタ、スイレン茂る水生花園、ラヴェンダー、チャイブなどが栽培されるハーブ園などがある。栽培温室と花木園を結ぶ所要10分の散策路では手軽に森林浴を楽しむことができる。夏ならジャブジャブ池のあるせせらぎパークがファミリーに大人気。フラワーショップ「ロベリア」では鉢花、苗などを販売。カフェテリア「花空間」では芝生広場を眺めながら喫茶・軽食でのんびりでき、都会では味わうことのできない癒しの空間となっている。精華町の特産品も販売。
木津川東岸の尾根の裾を巧みに利用した古墳時代前期(3世紀後半)の前方後円墳。墳丘の長さ175m、後円部の高さ20mという京都府で4番目の大きさ。昭和28年、国鉄奈良線の法面拡幅工事により発見された竪穴式石室内から40面近い中国鏡が出土、うち三十数面が「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」だったことから古代史をゆるがす発見として注目された。今もJR奈良線が後円部を南北に縦断するが、平成12年、発見から半世紀を経て国史跡に指定された。また古墳のある場所は、古代の山背(やましろ)古道の一部。山背古道は北は城陽から南は木津まで奈良線にそって伸びる古代の官道。
加茂町の笠置山は全山が花崗岩の山で古来から巨岩信仰の対象となっていた。奈良時代に仏教の普及に伴って東大寺の良弁僧正、実忠僧正が弥勒大磨崖仏を刻んだのが寺としての始まり。正月堂は、752年に実忠僧正が建立したものだが、東大寺二月堂で行なわれている修二会(お水取り)が最初に行なったお堂。弥勒大磨崖仏は、日本最大の天人彫刻像といわれるが、当時の最先端技術を持つ渡来人の工人が造ったと想像される。この弥勒像に参詣する笠置詣でが平安時代に流行し、笠置寺も隆盛する。しかし1331年(元弘元年)、いわゆる元弘の乱で倒幕の狼煙を上げた後醍醐天皇を匿ったことで、全山が焼失、衰退した。現在の寺は明治9年に無人だった寺を復興したもの。
木津川の南岸にある標高289mの信仰の山。一帯には白亜紀後期の領家花崗岩類(柳生花崗岩)が分布し、巨岩からなる山の頂から、弥生時代の有樋式石剣が発見されていることから古代から巨岩信仰の対象となっていたことがわかる。奈良時代には、東大寺の良弁僧正が巨大な磨崖仏を刻み、その後、一大修験場に発展した。弥勒信仰の霊場とされた笠置寺が建立され繁栄したが、倒幕に失敗した後醍醐天皇を匿ったことで戦火を受け荒廃。現在、笠置山を中心に、一帯は京都府立笠置山自然公園に指定されている。
三上山(海住山)の中腹に立つ古刹。735(天平7)年、聖武天皇の勅願で、東大寺の良弁僧正が一堂を建て、十一面観世音菩薩を安置したのが始まり。平安末期に荒廃したが、1208(承元2)年に笠置山の解脱貞慶上人が再興、塔頭58を数えるまでに繁栄した。豊臣秀吉の検地によって経済的な痛手を受け、規模は大きく縮小した。境内に立つ五重塔は1214(建保2)年に建てられたもので国宝。昭和38年の解体修理で初重の屋根の下に裳階が復元されたが、このスタイルは法隆寺とここだけもの。寺の周囲を流れる大井手用水路も五重塔と同じ慈心上人の建造。水不足で悩む村人の救済に造られた用水だ。また本尊の十一面観音像、文殊堂、絹本著色法華曼荼羅図、海住山寺文書が国の重要文化財。
738年(天平11)年、行基開山と伝えられる古刹。1047年(永承2年)義明上人が、薬師如来を本尊に小さな堂を建立。1157年(保元2年)に現在の本堂(九体阿弥陀堂)が建てられている。別名「九体寺」ともいわれるのは、この藤原期に建てられた本堂に9体の阿弥陀如来を安置していることから。境内にそびえ立つ三重塔は、1178年(治承2年)、京都の一条大宮から移築したもの。本堂、三重塔、阿弥陀如来像九体、四天王像四体はすべて藤原期のもので国宝に指定されている。本堂の前には阿字池が広がり、浄瑠璃浄土(東方浄土)を示した庭園景観となっている(浄土式庭園は国の特別名勝・史跡)。伽藍と秘仏が平安時代そのままにすべて揃って残されている京都でも貴重な寺だ。
京都府と奈良県の境に近い加茂町にある寺で、729(天平元)年に聖武天皇の勅願により、行基が阿弥陀堂を建てたのが創始と伝わる。最盛期には39の坊社を有する大寺院だったが承久の変(1221)などの戦火で焼失、衰退した。本堂に安置されている高さ3mの欅造りの阿弥陀如来坐像、普賢菩薩坐像は平安時代のもので国の重要文化財。板壁仕上げの三重塔は室町時代に再建されたものでやはり国の重文。本堂横の石室に安置された石室不動明王立像は眼病は治癒のお礼に彫られたもので応長2年(1312年)の銘がある。五輪石塔、十三重石塔など周辺の石塔とともに国の重要文化財に指定されている。ユニークなものでは。山門の石段の手前右側に巨岩をくり抜いて作られた鎌倉時代の「石風呂」がある。39坊の僧がこれで身を清め、入山したのだという。













