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桂地域は平安時代には藤原道長の別荘地だったところ。その跡地に1615(元和元)年、後陽成天皇の弟で八条宮家初代の智仁(としひと)親王が造営に着手し、2代・智忠(としただ)親王の代にほぼ完成した別荘。着工から完成まで実に47年の年月を要したといわれる。敷地内には、桂川の水を引いた池を配し、周辺に書院、御殿、茶亭を置いている。庭と建築とが見事に融合した美しさで名高い。離宮周辺の桂は平安の昔から観月の名所として名高い場所で古書院には「月見台」も設けられている。ドイツ人建築家ブルーノ・タウトは、昭和8年、「日本インターナショナル建築会」の招待を受けて来日。桂離宮を訪れたとき、「それは実に涙ぐましいまで美しい」と語っている。さらにその著『ニッポン』のなかで簡素な日本美の象徴として桂離宮を「日本建築の世界的奇跡」と絶賛している。

妙心寺のすぐ東に位置する最高点が標高116.2m(一の丘)の小高い丘。京都盆地を一望する地として国の名勝に指定されている。北から一の丘、二の丘、三の丘と3つの丘が順に並び、それぞれに古墳がある。一の丘にある1号墳は、平安朝初期の右大臣・清原夏野の小円墳。古くは双の岡といい、神楽岡、船岡山とともに風光明媚な場所として都人から愛され多くの和歌に歌われている。古くから天皇の遊猟地で西麓には『徒然草』で知られる兼好法師の住まいがあった(一の丘と二の丘の鞍部の山麓)。戦国時代の武将で、『古今和歌集』の秘事口伝の伝承者として知られる細川幽斎も丹後からこの地へ移り住んだ。一帯は歴史的風土保存区域に指定されている。

木津川東岸の尾根の裾を巧みに利用した古墳時代前期(3世紀後半)の前方後円墳。墳丘の長さ175m、後円部の高さ20mという京都府で4番目の大きさ。昭和28年、国鉄奈良線の法面拡幅工事により発見された竪穴式石室内から40面近い中国鏡が出土、うち三十数面が「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」だったことから古代史をゆるがす発見として注目された。今もJR奈良線が後円部を南北に縦断するが、平成12年、発見から半世紀を経て国史跡に指定された。また古墳のある場所は、古代の山背(やましろ)古道の一部。山背古道は北は城陽から南は木津まで奈良線にそって伸びる古代の官道。

1594(文禄3)年に豊臣秀吉が伏見城を築城し、伏見は政治・軍事の中枢となり城下町として栄えた。伏見城築城に際して、建築資材を運ぶため伏見港を開き、大規模な土木工事で宇治川流路の付け替えた。これで誕生した運河が宇治川派流。伏見は、京の豪商・角倉了以が高瀬川運河が開いた1614(慶長19)年以降、京と大坂を結ぶ水運の中継地として栄え、船宿や廻船問屋が建ち並んだ。寺田屋騒動で知られる「寺田屋」も船宿の一つで当時の面影を伝えている。また良質の地下水にも恵まれ「伏見の酒」でも有名だが、宇治川派流沿いには酒蔵が建ち並び、伏見のシンボル的な景観を示している。宇治川派流沿いには遊歩道も整備され散策に絶好だ。

天智天皇(在位668〜671年)を祀った京都最古の御陵。平安後期の歴史書『扶桑略記』によれば、天智天皇は大津宮から山科の森へ馬を駆って狩猟に出かけた時、片方の沓(履物)だけを残して消息不明に。沓が発見されたところに陵墓が築かれたという。古代の天皇陵は埋葬者の特定が困難なものが多いが、この陵墓に関しては、『延喜諸陵式』に「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」と記されており、近隣に大きな墳墓がないため異論が少ない。考古学的には御廟野古墳(やましなごびょうのこふん)と呼ばれており、陵墓は上円下方墳。参道脇には昭和13年に京都時計商組合が建立した垂直型日時計がある。天智天皇が漏刻(水時計)をつくり時刻制度を定めたことに由来するモニュメントだ。

昭和63年に発見された私市(きさいち)円山古墳は、5世紀中頃築造の全長81m、高さ10mの円墳。1000基を超える古墳群が形成された由良川中流域では最大規模を誇る古墳だ。3段構成の墳丘からは、武具や農具、勾玉や銅鏡などの副葬品が多数出土。眼下に由良川を見下ろすこの古墳を中心に復原整備された公園には、墳丘頂上までレプリカの埴輪列がめぐらされ、見晴らしも抜群。周辺には広場や東屋を配し、夜間にはライトアップも実施され幻想的だ。国の史跡。

濠川に面したかつての船宿。三十石船が往来した時代は、大いに賑わったという。また勤王派の急先鋒であった薩摩藩士が、島津久光の命で同士討ちされた「寺田屋騒動」が起きた場所で、さらに坂本龍馬が隠れ家とし、襲撃されたのもここ。宿の養女おりょう(お龍)の機転で難を逃れた龍馬は、のちにこのおりょうを妻にめとる。今でも柱に刻まれた刀傷や弾痕、2階には竜馬が滞在した「梅の間」が残され、庭には薩摩九烈士の碑や龍馬像も立つ。

朝鮮侵略を目的に、豊臣秀吉が2度の出兵を行なった、文禄・慶長の役。慶長の役の際、軍功の証として慣例である首級(しるし)の代わりに、敵兵の耳や鼻などを切り落とす「鼻切り令」が出された。派兵された武将たちは、それらを塩漬けにして樽に詰めて持ち帰り、京都に運んだという。それらが秀吉の命で、この地に埋められ、塚が作られたと伝えられる。現在は高さ7mの墳丘の上には大きな五輪塔が建てられ、供養の儀がもたれている。

南北朝時代から東京遷都まで、歴代天皇の住居として使われた場所。現在の建物は、1855(安政2)年に平安期の建物を模して再建されたもの。即位の礼を行なった紫宸(ししん)殿、天皇の御座所であった清涼殿は、王朝文化の優美さを今に伝える(内部参観は要事前申し込み)。東西294m、南北448mの築地塀と清流の溝に囲まれているが、鬼門にあたる北東は塀が欠けており、屋根裏にいる木彫の猿が鬼門を守っていることから、別名猿ヶ辻とも。参観は、標準コース(所要1時間)と短縮コース(所要35分)に2コースに分かれている。

円山公園裏手の華頂山山頂、青蓮院の飛地境内である将軍塚大日堂の境内にある直径13m、高さ1.8mの円墳で、平安初期、蝦夷征討に活躍した征夷大将軍、坂上田村麻呂を武具姿のまま棺に納めて埋めたといわれる場所。『保元物語』、『平家物語』には桓武天皇ゆかりとしての来歴も残る。また塚から南へ100mほどの場所には、京都市内を一望する市営の展望台があり、夜景を望むスポットとして人気。円山公園から山頂まで歩くと、所要約30分。

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