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703(大宝3)年、天武天皇の命で行基が創建と伝わる古寺。1665(寛文5)年、天海僧正によって現在地に再興した。江戸時代から、代々法親王が住持する天台宗の門跡寺院となり、「天台宗五箇室門跡」の一つ。本尊の毘沙門天は、伝教大師の自刻で延暦寺根本中堂の本尊薬師如来の余材で刻まれたと伝えられる。商売繁盛・家内安全にご利益がある。一月初寅参りには福笹が授与され、大いに賑わう。宸殿は後西天皇の旧殿を下賜されたもので、障壁画116面は、狩野探幽の養子・狩野益信の作。春は樹齢100余年の枝垂桜が咲き見事。秋は紅葉で境内は色鮮やかだが訪れる人の少ない穴場。

大徳寺塔頭寺院のひとつで、1601(慶長6)年に千利休七哲の一人、細川忠興(ほそかわただおき)が父の菩提を弔うために創建。緑が鮮やかな参道を抜けると本堂があり、裏手には豊臣秀吉が1587(天正15)年に開いた北野大茶会で用いた茶室を移築した松向軒(しょうこうけん)が控える。本堂前の庭は江戸初期に造られもので、忠興とガラシャ夫人の墓がある。寺宝の李唐筆「絹本墨画山水図」2幅は南宋初期山水画の名作で国宝。方丈の庭園は、楓の庭と呼ばれ新緑、紅葉の時期はひときわ美しい。寺宝は、10月第2日曜日、1日限りで公開(大人500円)。

芳春院は大河ドラマ『利家とまつ』でお馴染みの前田利家の夫人、松子のこと。1599(慶長4)年、利家が死んだことにより出家し、芳春院と号する。1608(慶長13)年、松子(芳春院)が玉室宗珀(直指心源禅師)を開祖として建立。前田家の菩提寺で、境内には松子、前田利長、利常などの前田家霊屋がある。客殿背後の庭園は、1617年(元和3)に築かれた飽雲池(ほううんち)を中心とする楼閣山水庭園で、小堀遠州の作と伝えられる。打月橋で結ばれ池中に建つ二重楼閣建築の「呑湖閣」(どんこかく)は春屋宗園の昭堂で、金閣、銀閣、飛雲閣とともに「京の四閣」に数えられている。呑湖とは、比叡山の向こうの琵琶湖を飲むという意味だ。庭と同時に建てられたが、現在の建物は1804(文化1)年に再建されたもの。

大徳寺の塔頭。大永年間(1521〜1528年)に難攻不落の七尾城建設で知られ、文人としても名高い能登の守護・畠山義総(はたけやまよしふさ)が建立。寺の名は義総の法名に由来。方丈は創建後に火災にあうが、1533(天文2)年に再建。1581(天正9)年、前田利家が手を入れ、前田家の菩提寺になった。檜皮葺の表門は創建当時のままで、室町時代の禅宗様式を伝える唐門、日本で最初の床の間を有する本堂とともに国の重文。本堂は近年の修理で創建当時の姿に復元されている。

東福寺の塔頭である光明院は、知る人ぞ知る新緑・紅葉の名所。別名「虹の苔寺」と呼ばれる。1391(明徳2)年、金山明昶の開山で、方丈前の庭園、「波心の庭」は、背後の傾斜を生かして重森三玲(しげもりみれい)氏が作庭した昭和の名庭。池泉式の枯山水庭園で洲浜型の枯れ池に三尊石組みを配し、背後の植え込みで雲を表現している。植え込みのサツキ、ツツジは例年5月から6月に開花し彩りを添える。

東福寺の塔頭のひとつ。文安年間(1444〜1448年)に、東福寺第129世・琴江令薫(きんこうれいくん)が開山。東福寺はかつて法性寺の大伽藍があったところで同聚院の建つ場所は、1006(寛弘3)年に藤原道長が40歳の誕生日を祝って五大明王を安置する五大堂を建てた場所。「じゅうまん不動明王」と呼ばれるこの寺の本尊、不動明王坐像は、五大堂に安置された五大明王のひとつで、国の重要文化財。密教寺院でない臨済宗の寺が不動明王を祀るのはそんな由来から。道長ゆかりの五大明王像のうち現存するのは火除け像として崇敬されているこの像のみ。通常の不動明王像は恐ろしい形相のものが多いが、藤原時代の貴族趣味が反映してのことか、頼もしさと優雅さが漂う像に仕上がっている。

南禅寺境内には、琵琶瀬疏水の枝線水路が通過している。水路は明治23年に建造された水路閣と呼ばれるレンガ造り、ローマ風のアーチ橋上を通っている。水路閣は全長が93.17m、幅4.06m、水路幅2.42mで境内の景観に配慮して設計され、13の橋脚が作り出すアーチの連続は記念撮影に絶好。近くにあるインクラインとともに貴重な近代化遺産として国の史跡となっている。現在も水路閣には毎秒2tの水が流れている。水路閣を通る琵琶湖疏水の枝線水路は、本流から蹴上で分岐し大文字山(如意ヶ岳)の山麓に沿って南禅寺、若王子、高野、下鴨、堀川と流れる。水力利用、かんがい、防火が主な目的の用水だが、水路閣や哲学の道などあらたな景勝地も誕生した。

南禅寺の塔頭寺院のひとつで、1339(暦応2)年、光厳天皇の勅許により虎関師錬(こかんしれん)が南禅寺を開いた大明国師(無関普門)の塔所として建立。大明国師は亀山法皇から南禅寺の開山を命じられたときすでに80歳。開山の年の12月に亡くなっているので禅寺として伽藍が完成するのを見ていない。1447年(文安4)年の南禅寺大火で類焼し、応仁の乱で荒廃した。1602(慶長7)年、歌人としても名高い細川藤孝(幽斎)が再興した。幾何学的な石畳を中心にした枯山水庭園の方丈前庭(東庭)と池泉回遊式の書院南庭という趣あるふたつの庭園がある。方丈は、細川幽斎の再興時に建立された柿皮葺きの建物で襖絵(非公開)は長谷川等伯の筆で国の重要文化財。

東山三十六峰の南端、緑豊かな月輪山の麓に位置する真言宗泉涌寺派の総本山。皇室との関連が深く御寺(みてら)とも呼ばれている。寺伝によると、空海が天長年間(824〜834年)に草庵を結び、法輪寺としたのが起こり。1218(健保6)年に月輪(がちりん)大師が宋の様式の大伽藍を建築し、境内の一角から清泉が湧き出たことから泉涌寺と改めたと伝えられる。1224(貞応3)年には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められた。1242(仁治3)年に四条天皇が陵墓が築かれて以来14代の天皇陵を始め、皇妃、親王陵など25の陵墓がある。

関西花の寺25ヶ所霊場の第1番札所で真言宗の寺。720(養老4)年、インドの帰化僧、法道仙人が草庵に十一面千手千眼観世音菩薩像を安置したのが始まりと伝えられる。近くには弥生時代から古墳時代の遺跡である観音寺遺跡もあり、古くから文化的な中心地だったことがわかる。鎌倉時代には25坊を有する寺だったが、1576(天正4)年に明智光秀の焼き討ちを受け焼失した。明治29年に、大聖院と多聞院が統合され観音寺が誕生した。水子供養、あじさい寺として有名で、鎌倉時代の文書6点を含む多数の文書が残されている。境内には江戸時代の建築で入母屋造りの豪壮な本堂、観音堂、仁王門が建つ。本尊は千手千眼観音。6月初旬から7月初旬にかけては境内一面に1万株のアジサイの花で彩られる。また事前に予約(20人以上)すれば法話を聞くことができる。觀音寺大護摩大祭は丹波随一の祈祷祭で2月11日の10:00〜15:00に行なわれる。

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