千里山を背に、豊かな湧き水で知られる吹田市にある延喜式内の大社で、豊城入彦命(とよさいりひこのみこと)を祀っている。かつては『万葉集』に「いはばしる垂水の上のさわらびの、萌えいずる春になりにけるかも」と志貴皇子が詠んだ滝が、境内にあったが都市化の流れで面影はない(社殿の北側に滝跡がある)。大化改新の頃に日照りが続き、祭神の子孫が10kmも離れた難波長柄碕宮まで水を引き込んだことから雨乞いの神とされ、以後日照りのたびに、朝廷から使者が送られたといわれる。
5世紀頃、呉の国から渡来して機織りや染色の技術を日本に伝えたという呉服(くれは)姫(呉織媛)を祀る古社。絹織物を呉服物というのは、呉服姫が伝えたからだとか。周辺には摂津の国・武庫の浦に上陸した、この地に定住したと伝えられる渡来人の集落跡も多い。また、近くには呉服姫といっしょに渡来して、穴織りを伝えた穴織(あやは)姫を祀る伊居太神社がある。西国七福神の恵比寿さんの社としても有名。
第29代・欽明天皇の勅命で応神天皇陵の前に設けられた日本最古の八幡宮。1051(永承6)年、後冷泉天皇の命で現在地に移され、鎌倉幕府などの尊崇を集めた。現在する本殿、拝殿は、1606(慶長11)年、豊臣秀頼の再建。拝殿の建造がちょうど大坂夏の陣に当たったために、建物の内部は未完成に終わっている。収蔵庫に保管される源頼朝寄進の「塵地螺鈿金銅装神輿」(ちりじらでんこんどうそうしんよ)は国宝。9月15日の秋祭りには、国宝の神輿が応神天皇陵に渡御する儀式も行なわれる。
社伝では、600(推古6)年、聖徳太子が四天王寺を建立した際に西方の鎮護として創建と伝えられる古社。往時は海岸沿いだったので漁業の神様として恵比寿神を祀ったという背景もある。平安時代にはこの神社から宮中に鮮魚を奉献していたと伝えられる。「商売繁盛で笹もってこい」の威勢のいい掛け声がこだまする「十日戎」(1月9日〜11日)は有名で、わずか3日ながら100万人の参詣者を集める。参拝後、社殿裏のドラを打って再度お願いし、縁起物がぶら下がっている福笹を「福娘」から授与されるのが習わし。
北船場の道修町は、江戸時代初期から薬問屋が集まっていた場所(今も薬関係の会社が多い)。輸入された唐薬種の品質鑑別が難しい仕事で、人の命を預かる大事な仕事であることから仲介仲間が京都・五条天神宮の祭神で日本の薬祖神である少彦名命(すくなひこなのみこと)を勧請、中国の薬祖神である神農氏(しんのうし)を合祀して少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)を創建した。文政5(1822)年、大坂で疫病(コレラ)が流行ったとき、道修町の薬種業仲間が疫病除薬として虎の頭の骨を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を製造、少彦名神社の神前で祈祷をして庶民に無料で配布。このとき神社は病除祈願の「張り子の虎」を授与した。その霊験が灼かだったので以来、「張り子の虎」が厄除けのお守りとして親しまれ、この神社のシンボルにもなっている。神農さん(しんのうさん)と親しまれ健康を祈願する参拝客が多い。初穂料100円を奉納すれば花詞(はなことば)の御札が授与される。
社伝によれば6世紀頃、大阪湾に浮かぶ小島のひとつに「住吉須牟地曽根ノ神を祀ったのが始まりという大阪屈指の古社。現在では梅田の高層ビルの狭間に位置するが往古はこの地は小島だった。南北朝時代に曾根洲が地続きの曾根崎・梅田の総鎮守として尊崇を集める。『摂津名所図会』によれば神社の名の由来は、菅原道真公が太宰府に流される際に通りかかって詠んだ歌「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に因む。「難波八十島祭」は、奈良時代には天皇の即位儀礼の一環であったと推測され、古代難波で王権のもとに執り行なわれた行事と考えられている。社殿は太平洋戦争で焼失し、戦後に再建されている。
天暦3年(949)に村上天皇の勅願により菅原道真を主祭神として創建。901(延喜元)年、太宰府に左遷される途中、菅原道真は摂津中島の大将軍社に参詣。ところが天暦3年になって突然、大将軍社の社前に7本の松が生え、夜毎にその梢が光を放ったので社殿を建てたと伝えられる。その頃、藤原時平の策略が明らかになり、菅原道真の名誉回復が図られたと推測できる。社殿は過去7度に渡って焼失し、現存する本殿は大塩平八郎の乱後の1843(天保14)年の再建。梅花殿は、神宮(伊勢神宮)の用材を下賜されたものを使い昭和3年に建てられたもので国の登録文化財。明治43年築の参集殿も国の登録文化財。
社伝では、神功皇后が新羅官出兵の折りに三守護神を祀ったことが創始という古社。全国2300の住吉社の総本社で摂津国一の宮でもある。航海安全、和歌、軍の神として信仰されている。第一本宮から第三本宮まで大阪湾を向いて縦に、第四本宮は第三本宮の横に配置する本殿の配置は、ここだけの珍しいもの。1810(文化7)年再建の本殿(第一本宮〜第四本宮)は直線的な造りが美しい住吉造りで、いずれも国宝に指定されている。柱が四角の鳥居も独自のスタイルで住吉鳥居と呼ばれるもの。1607(慶長12)年、豊臣秀頼が寄進した石舞台、東楽所、西楽所、南門は、国の重要文化財。石舞台は、厳島神社や四天王寺とともに「日本三大舞台」に数えられている。
社伝によれば神武天皇が九州から難波津到着の際、石山崎(今の大阪城辺り)に生島大神、足島大神を祀った場所が神社となったという古社。平安時代には出雲大社、熊野大社と並ぶ格式を誇った。1580(天正8)年には、織田信長による石山本願寺攻略で焼失。石山本願寺跡地に豊臣秀吉が大坂城を築城する際に現在地に遷座した。その後も戦火や台風で社殿は損壊し、現在ある壮麗な桃山様式・生國魂造りの社殿は戦後の再建。境内には建築関係者の崇敬が篤い家造祖神社、製鉄の神を祀る鞴(ふいご=不囲碁)神社、大坂城鬼門の守護神・城方向八幡宮(きたむきはちまんぐう)、淀君が尊崇した鴫野神社など数々の境内社があるが、『曾根崎心中』の生玉の段の舞台で文楽の守護神である浄瑠璃神社はとくに有名。井原西鶴や上方落語の生みの親・米澤彦八らのゆかりの地でもある。
古代には土師寺・土師神社といい、この地に住んで初めて埴輪をつくったと伝わる土師氏(はじし=古墳造営や葬送儀礼にかかわった古代の豪族。光仁天皇から「菅原」の姓を賜った)の氏寺(土師寺)と氏神(土師神社)をルーツとする。903(延喜3)年、九州の太宰府で病死した菅原道真の自作という像を没後の947(天暦元)年に祀ったのが天満宮としての始まり。道真の伯母・覚寿尼が土師寺の住持だったことから道真の遺品がここに届けられた。織田信長軍の兵火で五重塔などを焼失するも、後に織田信長、豊臣秀吉、徳川歴代将軍の尊崇を受けた。江戸時代までは神仏混淆だったが、明治初年の神仏分離令により、5坊のうち、一之室、二之室の住持が神職家となり、天満宮を継承し、道明寺は道を隔てて西に移築された。現存する権現造りの本殿は江戸初期の再建。本殿背後の梅園に80種、800本の梅が植栽され2月中旬〜3月上旬に見頃を迎える。菅原道真が写経した大乗経を埋納した経塚から生えたという「もくげんじゅ」は、大阪府の天然記念物で、その種子で数珠を作り、念仏を唱えると、極楽往生できると謡曲『道明寺』に歌われている。

