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ビル街に江戸時代の町家が残る適塾は、江戸時代の蘭学者緒方洪庵の私邸で20余年に渡って蘭学を教えた私塾跡。備中国(現在の岡山県西部)足守藩士の子として生まれた洪庵は江戸、長崎で蘭学修業を続け、当時の大坂瓦町で医師として開業、同時に塾を開いた。洪庵の号「適々齋」から名付けられ、ここから福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内など1000人にも達する英才たちを送り出したといわれる。国の重要文化財に指定され、当時、塾生たちが寝起きした部屋や貴重な資料が公開されている。

中之島のシンボルともなる大正7年に建てられた赤レンガの壁と青銅のドームとのコントラストが美しい建物。北浜の株式仲買人・岩本栄之助が100万円の私費を投じて建設し、大阪市に寄贈したものでネオ・ルネサンス様式の傑作といわれている。1階の大集会場は2000人を収容する大きなもので当時としては驚異的な規模を誇ったという。国の重要文化財に指定され、平成14年に耐震設計を施すなどのリニューアルが行なわれている。夜間はライトアップされ、赤レンガがさらに美しく浮かび上がる。

中之島公園に建つ府立の図書館。旧本館は、明治37年に住友本家第15代家長吉左衛門氏の寄付によって建てられたもの。レンガと石造りの重厚な建物で、コリント式円柱に支えられるエントランスはローマのパンテオン(神殿)をモデルにしている。さらにドーム状の中央ホールは教会を思わせる造り。館内には大阪の郷土資料など約50万冊を収蔵している。建物は国の重要文化財に指定されている。

大阪市役所の向かい側に建つ明治36年築の美しい洋館で国の重要文化財。花崗岩を築き上げた石造りで、設計は東京駅などの設計で知られる辰野金吾とその後輩の葛西万司。落成時に押し寄せた見物客は、石造りの重厚な建物に驚愕し、「石の家」と名付けたと伝えられる。江戸時代には島原藩大阪蔵屋敷があった場所で、明治初期には日本最初の郵便局である「郵便役所」が置かれていた。

浪速区の新世界に建つ展望塔。通天閣は天に通じる建物の意で明治の儒学者、藤沢南岳の命名。もともとは明治45年に、歓楽地・新世界の目玉となった娯楽遊園地ルナパークにエッフェル塔を模して建てられたが、戦時中に鉄材の戦時供出のため解体され、昭和31年に再建された。2代目の通天閣は名古屋テレビ塔、東京タワーの設計で知られる内藤多仲(ないとうたちゅう)によるもので、高さ103m、91mにある展望台からは大阪の街を一望にする。5階展望台の台座に鎮座する「ビリケンさん」は足の裏を撫でるとあらゆる願いが叶うという像で、明治45年の創業時に世界的に流行していたビリケン像(ビリケン堂)をルナパークにも造ったのがルーツ。みんなの人気者、トンガリ頭に釣り上がった目のビリケン(BILLIKEN)は、1908年(明治41年)、アメリカの女流アーティスト、E・I・ホースマンが夢に見た神様を具現化したもの。

大阪ベイエリアのランドマークともなる高さ256m、地下3階、地上55階の大阪ワールドトレードセンタービルディングで通称WTCコスモタワー。建物は西日本一の高さを誇り、252mに位置する最上階に展望台が設置されている。360度全面ガラス張りの展望台からは、淡路島、明石海峡大橋、関西国際空港、生駒山などを見渡す大パノラマを眺望。夕景、夜景の美しさも抜群で、フロアにサンセットテラスや2人がけのボックスシートも設置され、デートスポットとしても人気。展望台へは52階まではシースルーエレベーターで上りその後、55階まで全長42mのロングエスカレーターを利用する。

1615(元和元)年の大坂夏の陣の年に、安井道頓らによって開かれた道頓堀川に町民の手で架けられたのが戎橋(えびすばし)。今宮村の戎神社(今宮戎神社)へ架かる橋というのがその名の由来だ。芝居興行が勘四郎町(中央区南船場)から道頓堀に移され元禄歌舞伎、人形浄瑠璃などの芝居小屋が集まった。架橋以来、戎橋は13回にわたる修理や架け換え工事が行なわれ、明治11年に鉄橋に、さらに大正14年に長さ36.1m、幅10.9mの鉄筋コンクリートアーチ橋となった。老朽化による架け替えで平成19年秋に新しい戎橋が完成し、道頓堀川の遊歩道整備も進められている。平成15年の阪神タイガース優勝時に道頓堀に飛び込むファンで問題となったがそれはこの戎橋から飛び込んだもの。橋の周囲は、江戸時代から商売繁盛の恵比寿様(今宮戎神社)への参道ということで飲食店が多く建ち並ぶ繁華街へと発展。難波駅から戎橋までが戎橋筋商店街、戎橋から長堀通までが心斎橋筋商店街となっている。また道頓堀の一本南側に併走するのは道頓堀商店街。道頓堀沿いに戎橋から太左右衛門橋までは道頓堀川遊歩道「とんぼりリバーウォーク」が整備され散策に絶好だ。

中世の富田林に誕生した宗教自治都市・寺内町(じないまち)。外周に土塁を巡らせ堀割を造り、4ヶ所ある町の出入り口にはそれぞれ木戸門が設けられていた。豊富な米と恵まれた水によって酒造業も発達するが、杉山家は1685(貞享2)年以来、造り酒屋として発展。富田林八人衆の筆頭年寄で、「わたや」と号し、町の設立から運営に至るまで中心的役割を果たした。最盛期には使用人も70人を数えたといわれ、その広大な屋敷は主屋を始め酒蔵、釜屋、土蔵など十数棟が現存し、当時の繁栄ぶりをうかがい知ることができる。大床の間に描かれた老松や襖絵は狩野派の狩野杏山守明の筆によるもの。現在、寺内町で唯一、内部見学可能な建物だ。寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構として昭和58年には国の重要文化財に指定されている。一帯は「富田林市富田林伝統的建造物群保存地区」に指定され、町並み保存が進められており、旧杉山家住宅はシンボル的な存在となっている。

今橋にある鉄筋コンクリート造4階建てのレトロな建物で、国の登録有形文化財。大正11年に1〜2階は報徳銀行大阪支店、3〜4階は貸事務所として建てられた。設計は、皇居二重橋や奈良ホテルなどの設計で有名な河合浩蔵。現在、1階は洋菓子・喫茶の「五感・北浜本館」として再生され、当時の役員室はパーティーなどで使われる個室へ、金庫室は厨房へと改装されている。1階は店舗、2階がカフェサロンになっているのでぜひ寄り道を。実際に銀行として使われた期間は実は非常に短く、昭和2年の金融恐慌で銀行は倒産、 昭和7年から新井証券として利用された。今橋界隈は大阪の金融街として数多くの銀行の本店・支店が建てられたが、往時のものは少なく、新井ビルは大変貴重な存在。

「コニシボンド」で有名な接着剤メーカー、コニシ株式会社の旧社屋(旧小西儀助商店)。明治3年に「小西屋」として創業したコニシは、創業時は、薬種問屋、食品の販売を行なっていた。明治17年に製造を開始した(明治21年に撤退)「アサヒ印ビール」は、アサヒビールのルーツでもある。大正14年に小西儀助商店と社名を変更、昭和51年に現在のコニシに改められた。塩野義・武田・藤沢・田辺・改源・小林・扶桑・小野と道修町(どしょうまち)界隈には薬種問屋が軒を連ねるが、往時の雰囲気を今に伝える建物は少ない。現存する建物は、エタノールなど化学薬品の輸入などで得た財力を背景に明治36年に建てたもので、店舗と蔵は国の登録有形文化財。住宅の主屋は国の重要文化財となっている。交差点に面した北西の蔵は、衣裳蔵と呼ばれている。

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