1698(元禄11)年に堀江新地開発時に信濃善光寺から智善上人を迎え、善光寺本尊出現の地として創建された浄土宗の寺院。橋上の放光閣に阿弥陀三尊を祀っている。江戸時代には多くの堂宇を有した大寺院で、境内の「阿弥陀池」は池に投じられていた阿弥陀如来(善光寺本尊)を本田善光が拾い上げたため名付けられた場所。信濃善光寺の秘仏本尊は、仏教伝来の際に百済からもたらされた仏像と伝えられ、排仏派の物部氏によって「難波の堀江」に沈められていた。現在の和光寺本尊は信濃善光寺の秘仏本尊を写したもの。
寺伝では聖徳太子により創建され、仏法弘通の公案をこの寺で行なったことから、法案寺と称するようになったという古刹。寺の名が地名の由来ともなった法円坂にあったが石山本願寺落城の際に類焼し秀吉の大坂城築城の際に道頓堀川に近い現在地に強制移転させられている。本堂に安置される聖観音立像は、高さ1mほどの木像で平安末期の作と伝えられ、国の重要文化財に指定されている。また、大阪七福神のひとつ弁財天を祀り、「日本橋の聖天さん」と親しまれている。芸技上達、学業成就、商売繁盛などにご利益がある。
701(大宝元)年、役小角によって開かれ、弘法大師が再興したと伝えられる河内長野市にある古刹。後醍醐天皇から保護を受け、建武新政直後の1334(建武元年)頃、楠木正成を奉行として、現在残っている金堂(国宝)を造営。本尊の如意輪観音も国宝に指定されている。1336(延元3)年、湊川の戦いで討ち死にした楠木正成の首は、足利尊氏の命により観心寺に届けられ首塚として祀られた。梅、桜、ツツジ、スイレン、椿などが咲く花の寺としても有名。
西暦593(推古天皇元)年に、聖徳太子が建立した、敬田院、施薬院、療病院、悲田院のうち、薬草を植えた施薬院が創始。聖徳太子が勝鬘経(しょうまんきょう)という経を人々に講じたため勝鬘院と呼ばれるようになった。金堂に愛染明王が奉安されているが、愛染明王信仰の普及とともに寺全体が愛染堂と通称されるようになった。金堂に祀られる愛染明王は、良縁成就、夫婦和合にご利益があり、境内にある「愛染めの霊水」は飲むと愛が叶うとされている。縁結びの霊木として信仰を集める愛染かつらも有名だ。境内の多宝塔は、桃山時代に豊臣秀吉によって建てられたもので国の重要文化財で、現存する大阪市最古の建築物。徳川2代将軍・秀忠再建の金堂は大阪府の指定文化財。「愛染祭」(6月30日〜7月2日)は大阪三大夏祭りのひとつで、300の露天が出て賑わいをみせる。聖徳太子が開いた日本最古の夏祭りともいわれている。「愛染祭」期間中のみ手づくりの「花まもり」が授与される。
593(推古天皇元)年創建と伝わる古寺。『日本書紀』によれば、仏教を支持する蘇我馬子と日本古来の宗教を支持する物部守屋の間の戦いで、仏教を支援した聖徳太子が形勢の不利を打開するため、祈願寺として自ら四天王像を彫って創建した日本最古の官寺。南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が南北に一直線に並び、さらに中門から北側は回廊が囲む日本で最古の伽藍配置で、「四天王寺式伽藍配置」よ呼ばれている。昭和20年の大阪空襲により境内北側の一部の堂宇を残して焼失し、現在ある建物は戦後の再建だが伽藍配置は往時のまま。重要文化財の六時堂、五智光院、本坊西門、石舞台などは大阪空襲による焼失を免れ江戸時代に再建されたものが現存。国宝などが収められた宝物館もある。
821(弘仁12)年、空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅願により創建した古寺。1200年の歴史を持つ寺は、1615(元和元)年の大坂城落城時、第二次世界大戦の大阪大空襲時と二度全焼し、本堂、大師堂、不動堂、宝塔、客殿、本坊、庫裡、鐘楼、東・西・南・北門は戦後の再建。本尊の千手観世音菩薩と鐘楼堂にある1675(延宝3)年造の梵鐘だけは難を逃れ、「カネが残った」という縁起をかついで大晦日には多くの人がこの鐘を撞きにやって来る。例年0:00までに並んだ人は全員除夜の鐘を撞くことができる(詳細は寺に確認を)。嵯峨天皇の念持仏であったと伝えられる本尊・千手観世音菩薩は本堂に安置されている。
7世紀後半、百済(くだら)の16代・辰斯王(4世紀末)の王子で日本に帰化した辰孫王の子孫、葛井連広成(ふじいのむらじひろなり=白猪史広成・しらいのふひとひろなり)が当時の天皇の仏教興降政策に協力して創建と伝えられる古刹。725(神亀2)年、聖武天皇の勅願によって七堂伽藍を整えた。藤井寺の地名はこの寺に由来。平安時代以降、今日まで西国三十三ヶ所観音霊場巡礼の第5番札所として多くの人の信仰を集めてきた。聖武天皇の勅願により安置され、行基が開眼と伝えられる本尊の「乾漆千手観音菩薩座像」は大阪府下で唯一の天平時代の仏像として昭和13年に国宝指定を受けている。本尊は毎月18日に開扉、公開され本堂内部とともに拝観できる。近世は豊臣家・徳川家の庇護を受け、四脚門は、1601(慶長6)年、豊臣秀頼が寄進したもので国の重要文化財。4月の末には「藤の花まつり」が行なわれ、境内の5ヶ所にある藤棚が美しい紫色に染まる。その後に咲き始める白い藤も、訪れる人の目を楽しませてくれる。
富田林市の南東、嶽山(だけやま)中腹にたたずむ真言宗の古刹。595年(推古天皇2年)、勅命により、薬師如来を本尊として蘇我馬子が創建した。蘇我馬子によって建立された。823(弘仁14)年、空海(弘法大師)が祈祷を唱え、龍王を祀ったところ枯れ池の水を蘇らすことができた。竜泉寺という寺名はこの故事に由来する。池に誕生した3つの島に、聖天、弁財天、叱天を祀り、牛頭天王を鎮守とした。南北朝時代には楠木正成が嶽山山頂に龍泉寺城を築いたため戦火に巻き込まれ、戦国時代には兵火を受け荒廃。現存する社殿はその後の再建だが、仁王門は鎌倉時代のもので、府下最古の八脚門として国の重要文化財に指定されている。国の名勝、龍泉寺庭園は湧き水をたたえる浄土式庭園。小島に建つ社の形から平安時代のものともいわれている。
821(弘仁12年)に空海(弘法大師)が開基と伝えられる富田林市の古刹。本尊の不動明王像と脇侍は空海自作と伝わっている。開山時には現在地から南に1kmほど離れた嶽山(だけやま)の中腹にあったが、南北朝時代に楠木正成が嶽山山頂に龍泉寺城を築いたため戦火に巻き込まれ、本尊と脇侍は仮堂に避難。さらに1463(寛正4)年に現在地に移った。「目の神様」、「芽の出る不動様」として有名で、眼病平癒、商売繁盛、交通安全、開運厄除にご利益がある。本堂では25日を除く毎日、6:00、10:00、11:30、13:00、14:00、15:30にインド伝来の密教の秘法、祈願成就のための「不動護摩供」の儀式を行なっている。毎月28日の「不動尊御縁日」は近鉄滝谷不動駅から1kmの参道には、200軒もの露店が軒を並べる。5月28日の「柴灯大護摩供」(さいとうだいごまく)は山伏180名が参加する壮大なもの。法楽殿前で焚かれる護摩木も十数万本にも及ぶ。
奈良時代に聖武天皇の勅命で行基が開創し、空海(弘法大師)も修行をしたという古刹。その後衰退するが、1165(永万元)年、高野山の阿観僧正が後白河法皇、八条女院の庇護を受け再興。八条女院は真如親王筆の弘法大師御影を高野山から金剛寺御影堂に移したことから、女性が弘法大師と縁を結ぶ霊場となり、「女人高野」と称されるようになった。南北朝時代には南北両朝の祈願所になり、後村上天皇(後醍醐天皇の第1皇子で、南朝第2代の天皇)が1354(正平9)年から6年間、金剛寺を行在所とした。南朝方は後光厳天皇、長慶天皇、御亀山天皇が、北朝方は光厳天皇、光明天皇、崇光天皇が行在所としてまさに呉越同舟の時代となった。鎌倉時代築の天野殿は、寺の食堂(じきどう)で、後村上天皇の政庁となったためにその名がある。やはり鎌倉時代築の楼門とともに国の重要文化財。真如親王筆の弘法大師の御影が奉安されている「御影堂」と多宝塔は平安時代の創建と伝えられ国の重要文化財。金堂には、運慶の作と伝えられる本尊・大日如来、脇士の不動明王、隆三世明王が祀られており建物とともに国の重要文化財。


