プチたび > 取材班ブログ > 2009年12月 の記事

200912300101.jpg林[拝師、拝志、拝司、拜司、拝四、早、早司、早志、早矢、早矢仕、早矢止、速司、壙、晨、麓]
林さんのルーツを各地の“ハヤシ”に訪ねて

林忠崇(ただたか)は信義の人であった。
時は幕末、風雲急を告げる慶応三年(1867)、当時江戸詰めであった上総請西(じょうざい)藩主林忠崇のもとにも「大政奉還」の一報が慌ただしくもたらされた。このとき二十一歳の忠崇は、徳川三百年の恩顧に報いんと徹底抗戦を決意。徳川親藩が次々と官軍側につく中、なんと忠崇は自ら藩主の座を捨てて脱藩し、総督として官軍に立ち向かった。富津、佐貫、勝山、館山と進軍、海路伊豆を目指し、箱根、奥州と転戦したが、とき利にあらず、ついに明治元年(1868)仙台にて降伏。全国でただひとつ請西藩は取り潰しとなる。  初期に陣屋のあった貝渕陣屋跡(木更津市貝渕)と、二代林忠旭(ただあきら)の時に場所を移した真武根(まぶね)陣屋跡(木更津市請西)が残されている。
いずれにしろ林忠崇を除いて、戊辰戦争で大名が先頭に立って奮戦したことなど、他に例をみない。昭和十六年(1941)、忠崇死去。享年94歳。忠崇の死が、わが国最後の大名の死でもあった。

200912290201.jpg東京・永田町の都道府県会館で、新潟県の胎内市の観光関係者が行なったプレス発表の席上、「胎内市には日本一小さな山脈もあります。胎内リゾートホテルを基地にすればその縦走も可能です」と、PRしました。全体で数分の発表の中のセリフでしたので、多くのプレス関係者は左から右へと聞き流しましたが、プチたび取材班は「!!!」、こんな重要なネタを聞き流すはずもありません。

200912290101.jpg栃木県出身のU字工事のネタで一躍注目された栃木のイチゴ。昭和43年から日本一の生産量を守り続ける栃木県のイチゴの情報発信拠点として、真岡市の「道の駅にのみや」に「いちご情報館」が2009年12月25日(金)にオープンした。

■納め不動
毎月28日はお不動様(不動明王=不動尊)の縁日だが、一年最後の縁日である12月28日を『納め不動』(おさめのふどう)で、全国各地のお不動様で、護摩が焚かれたり、火渡りの荒行が執り行なわれます。不動明王は大日如来の化身。空海(弘法大師)が唐から密教を日本に伝えた際に日本に不動明王の図像が持ち込まれました。密教では五大明王の中心となる明王とされ、一切の悪魔や煩悩を降伏させんがために、憤怒(ふんど)の姿をしています。
成田山新勝寺で『納め札お焚きあげ柴灯大護摩供』
江東区の深川不動堂で『納め不動』
瀧谷不動尊で『納め不動』
岡垣町の成田山不動寺で『納め不動』
目黒不動尊(瀧泉寺)で『納め不動』
加須市の不動ヶ岡不動尊總願寺で『納め不動』
伊勢原市の大山寺で『納め不動』
尾道市の浄土寺で『納め不動』

■年末三崎まぐろ祭ビッグセール
三浦市の三崎漁港はマグロの水揚げで有名。年末恒例の三セールでは、三崎崎物マグロをもちろん、いか・たこ・海老・かに・ほたて・貝柱・ししゃも・数の子・いくら・さざえなどの新鮮な魚介類や地元農家の野菜、果物、生花など、正月に使う食材が卸売価格で販売されます。期間は28日〜30日。
三浦市の三崎新港で『年末三崎まぐろ祭ビッグセール』

■官公庁御用納め
明治6年に太政官は12月28日を御用納とする規定を発令。御用とは宮中や政府の仕事を差しましたが、その後、この風習は民間にも転用され、今では民間企業も「御用納め」という言葉を使うようになっています。ちなみに御用始めは、1月4日です。

■浅草仲見世開業記念日 浅草仲見世は、明治18年12月27日に開業。仲見世はもともと江戸時代に浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近在の人に、境内や参道での出店営業の権利が与えられたのが始まり。明治維新を迎え、寺の所領が政府に没収され、浅草寺境内も東京府の管轄となりました。政府は東京に5つの公園をつくり、出店する人々の一切の特権を剥奪します。明治18年5月に、東京府は仲見世全店の取り払いを命令。出店していた人々は12月に煉瓦造りの近代的な仲見世を誕生させます。その新生仲見世の生まれた日が12月27日というわけです。現在の仲見世には東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗があります。 ■知恩院の鐘の試し撞き 除夜の鐘を直前に控え、京都の知恩院では16本の子綱と1本の親綱で掛け声ととともに大鐘の試し撞きが行なわれます。 →知恩院で『鐘の試し撞き』

200912260201.jpg『伊香保の特色は、だれも感ずる如く、その石段あがりの市街にある。実際伊香保の町は、全部石段で出来て居ると言っても好い。その石段の両側には、土産物の寄木細工を売る店や、かういふ町に適当な小綺麗の小間物屋や、舶来煙草を飾った店や、中庭に回廊のある二層三層の温泉旅館が、軒と軒を重ね合せて、ごてごてと不規則に並んで居る。そしてその石段道の一方からは、絶えず温泉くさい湯気が濛々と立ち登って、如何にも温泉場らしい特異の感じがする』(萩原朔太郎『石段上りの街』より)。

日本広といえど、「なーんだ狭いじゃないか!」という場所もあるわけで、今回はそんなお話。川を渡ると隣の県へという場所は全国に数ありますが、連続する3駅で県が異なるという場所は、実は非常に数少ないのです。そんな場所が広ーい関東平野と九州の加久藤カルデラにあるので地図上でチェックしてみましょう。

200912260101.jpg清水[志水・冷泉・冷水・寒水・志美津・施水・滋水・瀏・真水]
残念ながら清水さんのルーツに清水次郎長は現れない

いつもの居酒屋で他の客と清水姓のルーツの話などをしていたとき、居酒屋の女将が「清水という苗字で一番有名なのは、きっと“清水次郎長”よね」と、口を挟んできた。私は女将に向かって首を横に振りながら、「次郎長の本名は“山本長五郎”というんだよ。清水湊に生まれて、次郎八という男の養子となったため、次郎八の家の長五郎、“次郎長”と呼ばれるようになったんだ」と言う。女将は、ヘエそうなのという顔付で私にビールを注いだ。私は、「それに清水市はいまでは静岡市になっているから、いまならさしずめ静岡の次郎長とでもいう名前になっていたかもしれないね」とつけ加えるのであった。「そんな名前じゃとても侠客の中の侠客というわけにはいかないわね」と女将はため息をつくのであった。

200912190201.jpg 私が小笠原の父島に旅したのはいまから20年ほど前の夏のことだった。
 東京から二十八時間という船旅で一緒だった三人に別れを告げると、私は緑の山が眼前まで迫った父島の二見港桟橋を歩き出した。
 私と同じ船室だった三人のうち二人は陽気なイタリア人の老夫婦で、小笠原の母島が気に入ったので、そこに定住するのだと語っていた。もう一人の若い女性は、東京生活に嫌気をさして父島で漁師を始めた恋人に会いにいくのだと語っていた。「彼には私が必要なのよ。出来たら父島の聖ジョージ教会で結婚式をあげたいわ」と、話の最後に嬉しそうに付け加えた。そして母島に定住する老夫婦とはもうこの旅で会うことはなかったが、恋人に会いに来た若い女性とは、その晩ひょんな所で再会するのであった。

200912190101.jpg木村[木邨・木邑・嘉村・季村・樹村・貴村・城村・帰村・基村・岐村・岐邨・奇村・鬼村・喜務良]
木村さんのルーツは紀氏か藤原秀郷か?

 夕方近く、偶然いつもの居酒屋の前を通りかかると、もう店が開いていたので、ひょいと覗いてみた。カウンターの向こうで女将がなにやら熱心に見ている様子。女将の視線を追えば、テレビで大相撲の最中であった。私は挨拶もそこそこにカウンターへ座って大相撲観戦に加わり、当然のようにビールを注文した。
 一面に牡丹、もう一面に唐獅子の彫金が施された白檀製の軍配が上がって取り組みが始まった。私はビールのグラス越しに上目遣いで取り組みを見ていた。女将はそんな私に、「ねえ、あの一番偉い行司の人、木村庄之助って言うんでしょ?」と声を掛ける。立行司は代々木村庄之助と言って、いまは三十何代目かのはずだよと、私は答えるのであった。「そうすると木村庄之助さんのルーツの木村庄之助は誰なの? でも変ねえ、庄之助という名前は襲名するわけでしょ、その場合でもルーツは初代の庄之助なのかしら?」
 ここの女将はいつも理屈っぽい。さてなんと答えようかと考えた。とにかく、行司の木村家の創設は寛永(1624年-〜1644年)年間の松代藩真田信之の家臣である中立清重だと言われているのだが、一般的な木村姓のルーツは遥か昔に遡れそうである。

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