後藤[五藤・呉藤・伍藤・后藤・小藤・護藤・五刀・五唐・五東・伍島]
後藤さんのルーツは藤原利仁で、後藤又兵衛、後藤新平なども有名
「今日はすごい渋滞でタクシーが進まなくて困ったわ」と居酒屋の女将が私に言った。私は燗酒を飲みながらさっきから女将の話を聞いていた。「昔からある道路はみんな狭いのよねえ、もっと広く造っておけば今頃困らないでもすんだのに」と女将は言いながら、二本目のお調子を運んでくる。「昔の人だって道路を広く造ろうとした人はいるさ。それも破天荒に広い道路を」と私は、突き出しに箸を伸ばした。「ハテンコウ?──で、その人は誰なの?」と女将は私にお酌をしながら訊く。「その人は、満鉄総裁・内相・外相・東京市長などを歴任した後藤新平さ。彼は東京に百年後を見据えた道路を造ろうとしたんだよ」と私が言うと、「偉いのねえ、その新平さんのことはよく知らないけれど、あたし、後藤又兵衛なら知っているわ」と女将はいつものように、どんどん話を変えるのであった。
──大正十二年(1923)関東大震災が起こると、後藤新平は帝都復興院総裁として東京の復興にあたり、世界で初めて区画整理を基本とする都市計画を推進した。東京から放射状に伸びる道路と環状道路からなる道路建設は、予算難のため縮小されながらも実行される。当初の案では道路の幅員は70m〜90m、道路に緑地帯を持たせるという世界の都市計画史に残る快挙ともいえるものであった。──ついでながら、後藤新平の故郷である奥州市に「奥州市立後藤新平記念館」がある。
──後藤又兵衛もまた後藤姓の中の有名人物である。又兵衛は、文禄元年(1592)から始まる朝鮮出兵や、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いなどに従軍。朝鮮出兵の第二次晋州城攻防戦では亀甲車で城壁を突き崩し、関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げるが、豊臣方についた大坂夏の陣で華々しく討死。
後藤又兵衛の遺跡としては、墓所の薬師寺(奈良県宇陀市)を始め、大阪府柏原市の玉手山公園、愛媛県伊予市の長泉寺、鳥取県鳥取市の景福寺などが数えられる。又兵衛の墓は大分県中津市(旧耶馬溪町)にもある。
──後藤氏の「後」は後裔という意味。「藤」は藤原氏を指し、“藤原の末裔”を表している。この後藤氏にもさまざまな系統があるが、後藤又兵衛を輩出した播磨の後藤氏を始め、史上著名なのは藤原利仁の末裔とされる流れであろう。また、同じ藤原利仁の末裔の肥前の後藤氏、美作の後藤氏なども知られている。遠江の後藤氏、讃岐の後藤氏、美濃の後藤氏、桑名の後藤氏、さらに後鳥羽院の西面の武士として承久の乱で切られた後藤基清と基清の子でありながら父を斬首しなければならなかった後藤基綱、金座・銀座を支配した後藤氏、装剣彫金家の後藤氏など多彩な後藤氏がいる。
後藤氏関連の遺跡としては、最後の播磨春日山城主である後藤基信は、秀吉の中国征伐という時代の怒涛の中に消えていったが、兵庫県神崎郡福崎町に播磨後藤氏の居城であった春日山城跡が残っている。城跡廻りの散策コースには、城主後藤氏に厚く祀られていた余田大歳(おおとし)神社や後藤氏が建立した嶺雲寺も含まれている。
また、JR姫新線林野駅を下車して、東南方向に「天」の字をかたどった三星山が見えるが、それが、滅亡するまでの200年間守り続けてきた美作の後藤氏の居城三星(みつぼし)城跡である。さらに、佐賀県武雄市の武雄神社は、肥前後藤氏の祖が当地に地頭として下向したとき、京都の祇園社の分霊を携えてきたのが始まりという。さらに、美濃の後藤氏の加賀野城跡(大垣市)にはぽつねんと石碑が立ち、東近江市には六角氏の重臣であった後藤氏館跡がある。静岡市葵区金座町のかつての金座跡でもある後藤屋敷跡に日本銀行静岡支店が建っているのが面白い。
後藤姓は、大分で大姓二位、岐阜八位、山形九位となっている。
代表紋は琴柱(ことじ)、轡(くつわ)。他に、下り藤、上り藤、丸に違い鷹の羽、開扇、枝柏、三つ柏、横木瓜、あわび、五三桐など。後藤新平は下がり散藤(ばらふじ)。












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