「石井さんは千葉の人なの?」と、いつもの居酒屋で女将が訊いた。「そうですよ、内房の岩井海岸、今は南房総市の岩井地区というんですがね、そこが実家なんです。それに、千葉には石井という名前はわりと多いんですよ」と、石井さんらしい客は熱燗を飲みながら言う。それを聞いていた私は、「確かに石井姓は千葉に多いし、石井姓のルーツは千葉などの下総国なんです」と、話しかけた。石井さんは、“ヘーエ!”といった顔つきをした。それをいいことに、私は話し続けるのであった。「それに岩井海岸の岩井は、かつては石井という地名だったんですよ」。石井さんはまた“ヘーエ!”を連発するのであった。
前回は日本一長い駅名が、東京ディズニーリゾートにあることを紹介しました。それでは日本一長いバス停名はどこにあるのでしょうか? あまりに長いバス停名だと、車内放送で「次のバス停は・・・」と放送するのも大変のはず。ところが、常識外れの平仮名で40文字という長〜いバス停が茨城県つくば市にあります。早速地図で場所を探してみましょう。
まずは日本一短い駅名は? テレビ番組のクイズでお馴染みのこの設問。答えは津駅(三重県津市/JR東海・近鉄・伊勢鉄道)。本来の表示はTUですが、「ギネス・ワールド・レコーズ」にはちょっぴり強引にZ(つ)として、「世界一短い駅名」として登録されています。漢字一文字ということでいえば蕨駅などもそうですし、森駅、泉駅、鮫駅、緑駅、巻駅、燕駅、原駅、姫駅、渚駅・・・・と実にたくさんあります。では、日本一長い駅名はどこでしょう?
藤田[富士田・藤多・藤太・葛田]
藤田氏のルーツは天下に名だたる武蔵七党の坂東武者だ
武蔵は戦乱の世であった。その戦乱の世を、初代の藤田政行に始まり、15代目の康邦まで約400年を、この武蔵国榛沢郡藤田郷(埼玉県大里郡寄居町)を中心に、藤田氏一族は生きぬくのであった。
藤田氏は、小野篁(たかむら)の裔である武蔵七党猪俣党の出で、政行が藤田郷に拠って藤田五郎と名乗り、その居城を花園城と命名したという。政行の子行康は、元暦元年(1184)の一の谷合戦で討死、孫の能兼は承久3年(1221)の承久の乱で活躍する。その後、藤田氏の後裔は、室町時代に足利氏に仕え、さらに山内上杉氏旗下の重臣として、戦国期に至るまでその領地を保つことができたのである。
石川[石河・石子・石古・石来]
石川さんは日本最古の氏のひとつである
石川姓は奈良時代から、石川臣(おみ)、石川朝臣(あそみ)などという氏姓で知られていた古代の大族で、古くは蘇我氏の一族に石川氏があった。蘇我馬子の孫であった倉山田石川麻呂は、大化の改新以後は宗家の蘇我氏に代わって蘇我氏一族の本流となり右大臣を務めた。石川麻呂は河内国石川郡を本拠として石川姓を称していたが、後、主流は加賀に移って栄え、その勢力地域を石川郡とした。これは姓氏が地名となった例で、明治には「石川県」と県名にもなるのである。
日本広といえど、「なーんだ狭いじゃないか!」という場所もあるわけで、今回はそんなお話。川を渡ると隣の県へという場所は全国に数ありますが、連続する3駅で県が異なるという場所は、実は非常に数少ないのです。そんな場所が広ーい関東平野と九州の加久藤カルデラにあるので地図上でチェックしてみましょう。
木村[木邨・木邑・嘉村・季村・樹村・貴村・城村・帰村・基村・岐村・岐邨・奇村・鬼村・喜務良]
木村さんのルーツは紀氏か藤原秀郷か?
夕方近く、偶然いつもの居酒屋の前を通りかかると、もう店が開いていたので、ひょいと覗いてみた。カウンターの向こうで女将がなにやら熱心に見ている様子。女将の視線を追えば、テレビで大相撲の最中であった。私は挨拶もそこそこにカウンターへ座って大相撲観戦に加わり、当然のようにビールを注文した。
一面に牡丹、もう一面に唐獅子の彫金が施された白檀製の軍配が上がって取り組みが始まった。私はビールのグラス越しに上目遣いで取り組みを見ていた。女将はそんな私に、「ねえ、あの一番偉い行司の人、木村庄之助って言うんでしょ?」と声を掛ける。立行司は代々木村庄之助と言って、いまは三十何代目かのはずだよと、私は答えるのであった。「そうすると木村庄之助さんのルーツの木村庄之助は誰なの? でも変ねえ、庄之助という名前は襲名するわけでしょ、その場合でもルーツは初代の庄之助なのかしら?」
ここの女将はいつも理屈っぽい。さてなんと答えようかと考えた。とにかく、行司の木村家の創設は寛永(1624年-〜1644年)年間の松代藩真田信之の家臣である中立清重だと言われているのだが、一般的な木村姓のルーツは遥か昔に遡れそうである。
■黄門忌(光圀忌)
水戸黄門で知られる徳川光圀は、常陸国水戸藩第2代藩主。元禄13年12月6日(西暦では1701年1月14日)の没で、旧暦をそのまま新暦に移せば、12月6日は、黄門忌となります。快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検や『大日本史』編纂に着手など文化事業も手がけています。TVや映画では諸国漫遊のイメージがありますが将軍綱吉の時代には幕政にも影響を持ちましたが、光圀自体は江の島より西には行ったことがありません。なんと箱根の山も越えていないのです。北も勿来の関までという狭い範囲です。墓所は常陸太田市瑞竜町の瑞龍山。母の菩提寺である常陸太田市新宿町の靖定山久昌寺に霊廟があるほか、水戸市の常磐神社では祭神として祀られ、授与品の「印籠守」はかつて『サライ』の表紙を飾ったこともあります。ただし、これほど有名なスーパースター黄門様ですが、黄門忌(光圀忌)の行事は対外的には不思議と行なわれていません。




