明治15年、現在の防府市八王子に、大地主の長男として生まれた種田山頭火(本名は正一)。あまり幸福とはいえない青春時代を送り、大正13年に出家得度。大正15年から九州、中国、四国などを行乞行脚した。のちに庵住を始め、昭和13年には湯田温泉へ転居。風来居と名付けられた庵を拠点に、山口の街をよく歩いたという。錦川通り沿いに立つのは、酒と旅、温泉をこよなく愛した山頭火の日記からとった自筆の句碑だ。
「日本のランボー」と激賞された中原中也の生誕地は、ここ湯田温泉。生家跡には記念館も建ち、街には詩碑が点在する。錦川通り沿い、種田山頭火の句碑と並ぶように柳の下に立っているこの詩碑は、昭和8年9月の作「童謡」。「童謡」として発表され、後に「小唄」とともに「小唄二篇」と題された。碑文は、とりわけ習字がすぐれていたといわれる中也自筆の原稿から起こしたもの。
瑠璃光寺東に位置する雪舟のアトリエ跡。室町時代を代表する画僧・雪舟は、大内氏の遣明船で明に渡り3年間滞在、禅学、中国絵画を学んだという。応仁の乱で荒廃した京都を避け、九州、東海、北陸など各地を放浪後、山口を再訪した雪舟は雲谷庵に住み、87歳で没するまで水墨山水画の完成に励んだ。現在の茅葺きの庵は、明治17年に復元されたもの。国宝の大作『山水長巻』は大内氏のために描かれたとか。
大内氏30代・義興(よしおき)の菩提寺の跡。神を敬う義興は、1518(永正15)年、伊勢皇太神宮を勧請したのが、現在藩庁門近くに建ち、「西のお伊勢さん」とも呼ばれる山口大神宮。朝鮮交易と遣明船貿易も独占した義興は、絶大な財力を背景に凌雲寺も建立。現在は、湯田温泉の北の谷間に自然石が積まれた石垣が残るのみだが、当時の規模を物語っている。
童謡詩人・金子みすゞが綴った故郷・仙崎の風景は、今もそこここにあふれるが、「角の乾物屋の」もそのひとつ。現在の白井酒食品店がその乾物屋にあたり、「角の乾物屋」の碑が立っている。みすゞは店先の米俵を眺め「角の乾物屋の塩俵、日ざしがかっきり、もうななめ。」と夕暮れの情景を描いた。
白井酒食品店と旧上田酒店との間には、「馬つなぎ場」の碑が立つ。金子みすゞの童謡「角の乾物屋の」では「三軒目の酒屋の炭俵、山から来た馬いま飼葉」とのくだりがあるが、これは塩俵や米俵など、産地などから重い荷物を運ぶため、まだ馬が活躍していた頃のお話。みすゞが生きた時代の生活に思いを馳せることができる。
各家の軒先に金子みすゞの詩を記した木板が飾られており、みすゞの足跡を感じさせるみすゞ通り。金子みすゞ記念館前に建つ錦町商店は、かつて氷蔵だった場所で、その隣、現在仙崎郵便局の駐車場となっている場所が、かつての魚屋だったという。酒屋の廃材を利用した錦町商店の店内では、仙崎名物の販売や、軽食がとれる。郵便局の駐車場に隣接した、錦町商店の壁面には、セピア色をしたみすゞが描かれたのタイル画が見られる。
仙崎砂洲の先端、今浦町にある、瀬戸の渡し。まだ青海大橋がない時代、青海島との往来は、この瀬戸の渡しから出る船で行なっていた。金子みすゞの詩碑が埋め込まれた護岸の切れ間が、渡し場の跡。ここから青海島へは、八王子行きと大泊港を挟んだ対岸の白岩行きがあり、人々は押し合いへし合い渡し船に乗り合ったという。みすゞはそんな渡し船が行き交う様子を描いている。またここを起点にして、駅に向かって延びる通りが、みすゞ通り。
みすゞ通りの中間点に位置するかつての松安商店。壁には金子みすゞの『八百屋のお鳩』の詩のプレートが打ち付けられており、建物傍らにその石碑も立つ。『八百屋のお鳩』のなかで、「お鳩が三羽八百屋の軒でクックと啼いた」とある、その八百屋がこの建物。現在は店も廃業しているが、木造平屋の建物が面影をとどめる。
大正12年、20歳の時、雑誌などに童謡を投稿し始め、西条八十に「若き童謡詩人の巨星」と称賛された、金子みすゞ。そのみすゞが明治43年、7歳で入学したのが、瀬戸崎尋常小学校。みすゞ通り沿いにはその跡地に石碑と、みすゞ通りを説明する石版が並んで立っている。現在は仙崎小学校となり、路地を入ったところに校舎が建つ。校庭にはみすゞの詩碑『わたしと小鳥とすずと』がある。








