毛利敬親(たかちか)が、幕末の1863(文久3)年12月に一露山の麓、今の山口県庁の位置に藩庁の移転を計画、1867(慶応3)年に竣工。旧藩庁門は、その藩庁の正門にあたる脇門付薬医門で、松やケヤキを用いた切妻造り、平入り、本瓦葺きの豪壮なもの。維新の時代を支えた高杉晋作、桂小五郎、林宇一(伊藤博文)らの長州藩士がこの門をくぐった。現在は門とともに残る堀が、往時の面影を伝えている。
香山公園内・墓所東に位置する、枕流亭(ちんりゅうてい)。もとは山口の旧家・安部家の離れで、一の坂川の安部橋近く、川の流れを望む河畔にあったため、枕流亭と名が付いた。明治維新後、幾度かの移転を経て、昭和35年、現在地に移されたもの。幕末の1867(慶応3)年、この町家2階の畳敷きの一室に、薩摩の西郷隆盛、大久保利通らが訪れ、木戸孝允などの討幕派と薩長連合の密議が行なわれていたと伝えられる。
香山公園内、枕流亭(ちんりゅうてい)すぐそばに建つ茶室。もとは13代藩主・毛利敬親(たかちか)が、藩庁移転に伴い政事堂の藩主居館近く(現在の山口県庁付近)の一露山麓に建てたもので、明治24年、現在地に移転。敬親が討幕派の家臣たちと茶事を装い、倒幕の密議を行なっていたと伝えられる。敬親は、かつて萩城三の丸にあった花江茶亭などの茶室でもたびたび倒幕の密議を催していた。春と秋の土・日曜、祝日には茶席も設けられる。
八坂神社の目の前に建つ、パステルグリーンの板張りに朱色の瓦屋根をのせた美しい洋館。山口市内に残る擬洋風建築のひとつで、時計台風の塔屋が上にのったユニークな外観が特徴的だ。建造は明治20年頃といわれ、玄関2階の3連のアーチ、バルコニーなどの洋風の外観に対し、内部は畳敷きで襖が入っていた。県内で最初の写真館(旧小野写真館)で、今も現役の写真館として使われている。外観のみ見学自由。
明治39年に建てられたイギリス領事館。ついで長崎、函館にも建てられたが、現在も残っているのはここだけ。領事館設置にあたり門司と下関が候補となったが下関戦争後の講和条約締結時にイギリス側の通訳となったアーネスト・サトウのイギリス政府への進言で下関が選ばれた。今ではノスタルジックな赤レンガの洋館が、港町下関のシンボルとなっている。館内に配されたマホガニーのテーブルや暖炉などのインテリアも興味深い。現在は市民ギャラリーとして利用されている。
下関南部町(なべちょう)郵便局は、明治33年に建てられ、下関に現存するもっとも古い西洋建築物。外壁のレンガは60cmの厚さで、現在も現役の郵便局として使用されており、国内の郵便局の建物のなかでも最古のもの。内部には建物に関する資料展示コーナーもある。日没〜22:00にはライトアップされる。明治時代に下関の発明家、俵谷高七氏がポストを考案、第1号の丸形ポストが郵便局前に設置されている。
藩政時代の家並みが残される長府宮の内町にある吉岡家長屋は、江戸時代に長府藩の要職にあった大久保五郎左衛門の屋敷だったもので、下関市の指定有形文化財に指定されている。間口3間(5.45m)、奥行き6間(10.9m)の建物で、外観や構造は江戸時代(文化・文政期)の特徴をそのまま残している。大壁を厚く堅固にした造りは、防衛を強く意識したもので、城下町ならではだ。
明治40年、伊藤博文がハルビン駅で射殺される2年前に、東京府下荏原郡大井村(現・東京都品川区)に建てられた別邸を移築したもの。車寄せのある寄棟造りで、西洋館、書院、離れ、蔵、中庭を配した広大なものだった。このうち、玄関、大広間、離れの3棟を解体、旧宅隣に移築した。宮大工の手による見事な大広間に続く鏡天井の廊下や離れ座敷の節天井の間、シャンデリアが付いた書院などがみもの。まるでパティオのような日本庭園もある。
松陰神社近くの椿東地区にあり、伊藤博文が14歳〜28歳までの13年間を過ごした家。博文は、ここからあの松下村塾にも通ったという。茅葺き入母屋造りの平屋の旧宅には、勉強部屋や母に叱られて立たされた「出世石」などが残る。また、風呂場とトイレが屋外にあり、当時の典型的な下級武士の邸宅の様子が見てとれる。国の史跡。
藍場川に面して建つ桂太郎の旧宅。1847(弘化4)年に生まれ、3歳でこの川島地区に移り住んだ桂太郎は、のちに内閣総理大臣に上りつめた人物。現在の建物は、少年時代を過ごした地に、1909(明治42)年に建てられたもの。藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園はのちに造作されたもので、懸石と呼ばれるこの地方独特の石組がなされている。庭には桂太郎の銅像も立つ。奥に建つ主屋は派手さを排した小ぢんまりとしたもの。









