1404(応永11)年、大内盛見(もりはる)が祈願所として建立した国清寺が前身。毛利氏が防長に移ってからは、毛利隆元の菩提寺となり、後に元就の菩提寺となった時に洞春寺と改称。山門は国清寺創建当時のもので、禅風の特色を表わした室町期の4脚門。また1430年(永享2)建立の観音堂は、大内持盛の菩提寺、滝町の観音寺にあった仏殿を移築したもの。花頭窓や桟唐戸などが美しい唐様の建物だ。山門、観音堂ともに国の重要文化財。
1557(弘治3)年、毛利隆元が大内義隆の菩提寺として建立。一帯は大内氏の居館(大内館)跡で、国の史跡。外堀と土塁の組み合わせで防備されていたが、現在外堀は埋められ、道路となっている。境内には、室町時代後期の建築で吉敷郡大内村(現在の山口市大内氷上)にあった興隆寺の釈迦堂を移築した本堂(重要文化財)、義隆辞世の碑、「大内義興公馬上展望」の銅像などが点在。大内瓦などを陳列する資料館も建つ。また庭園に鎮座する豊後岩は、当時の大内氏の財力を示す貴重な史料だ。
市街西部に位置する真言宗御室派の古刹。本尊の木造大日如来坐像は、平安時代の中頃・藤原期の作と推定され、山口市内では最古。国の重要文化財に指定されている。また境内には樹齢約850年と推定されるイチョウの老木があり、こちらは国の天然記念物。ほかに、鼓の滝もみものだ。紅葉の時期は一層美しい。予約で四季の山菜をふんだんに盛り込んだ、精進料理を味わうこともできる。
鴻の峯の麓に建つ普門寺。当時普門塾、三兵塾とも呼ばれたこの普門寺の観音堂で、江戸末期、幕府軍を迎え撃つため長州藩士に、西洋式軍隊の士官養成をしていたのが、大村益次郎。周防(すおう)山口の医師の子として生まれた益次郎は、23歳で大坂・緒方洪庵の適塾に学び、蘭学、医学を修める。幕府の講武所教授などを経て帰郷後は、長州藩や討幕軍の参謀として活躍。維新後、藩兵解体、国民皆兵の徴兵制を唱えたことで刺殺された。
鎌倉期創建の禅寺で、1320(元応2)年建造の純唐様建築の仏殿は、国宝に指定されている。1557(弘治3)年に毛利氏に追われた大内義長が自刃したのがこの寺といわれ、境内に義長の墓がある。そのほか、幕末の政変で都落ちした七卿のうち三条実美ら5人の公卿が潜居し、高杉晋作が維新回天の旗揚げをした歴史的な場所としても知られ、境内には騎乗姿の高杉晋作像も立てられている。また、書院には「七卿潜居の間」が残され、見学することもできる。
日本最大級の鍾乳洞、秋芳洞観覧券発売所右手には、塑造大洞寿円禅師像の「遺灰像(ゆいかいぞう)」を祀る秋芳洞開山堂がある。寿円禅師は、1354(正平9)年、この地方を襲った干ばつの際、洞窟にこもり、人民のために雨ごいをした人物で、秋芳洞入洞、開びゃくの祖として伝えられる。「遺灰像」は、禅師の骨灰を練り込めて造ったもので、南北朝時代の特殊な技法を用いたもの。洞内には「開山の行場」など禅師ゆかりの史跡も残る。
みすゞ通りの起終点でもある、仙崎砂洲先端の瀬戸の渡しからほど近い場所に建つのが、遍照寺。15世紀末の創建といわれる浄土真宗の寺で、金子みすゞの墓所がある。山門をくぐり境内に足を踏み入れると、まず目に入るのが『こころ』の詩碑。これはみすゞの自筆の型を取ったもの。その右奥には金子みすゞの墓と書かれた看板が立ち、みすゞや金子家の人々が眠る墓がある。例年3月10日のみすゞの命日には、たくさんの人が集まる。
金子みすゞ作『仙崎八景』のひとつとして詠われた極楽寺。みすゞ通りに面した山門前には『極楽寺』の詩碑のプレートがある。創建は784(延歴3)年と古く、鎌倉時代に現在地に移転したと伝えられている。「極楽寺のさくらは八重ざくら」とあるが、八重桜のほかに境内にはソメイヨシノも咲く。
寺社が集まる寺町エリア・北古萩にある亨徳寺(こうとくじ)。1452(亨徳元)年の開創で、当初は真言宗の寺として、のちに曹洞宗に改宗。道路に面した木造りの荘厳な三門は、1695(元禄8)年に建立されたもの。入母屋造り桟瓦葺きの屋根で、三間三戸の楼門は、桁行6.3m、梁間3.3m、棟高8.7mという規模をもつ。江戸中期の禅宗楼門として貴重な存在で、鏡軒小天井を組み入れたこの地方独特のものとか。
萩循環まぁーるバスの西回りコースが停車する寺町バス停。バス停がある海潮寺は曹洞宗の寺院。本堂は、藩校明倫館の遺構である聖廟を移築したもので、江戸末期の聖廟建築として貴重な存在。また萩の風物詩といえば、夏みかん。白土壁の塀越しに、黄色い実をつけた夏みかんの木々が顔をのぞかせているが、この名物の夏みかん栽培を奨励した小幡高政の墓もある。






