日蓮宗の総本山で、身延山中腹には大本堂、山頂近くに奥の院、周辺に30あまりの坊があり、標高1154mの山全体が霊山となっている。佐渡流罪を赦免された日蓮が、1274(文永11)年、身延山(みのぶさん)に草庵を開いたのが、久遠寺(くおんじ)の起こり。「法華経」で人々を救済しようと試みた日蓮は、三度にわたり鎌倉幕府に諫言(かんげん)をするが聞き入れられなかったという背景がある。身延山は当時、日蓮の信者で甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭・南部実長(なんぶさねなが)の領地。1281(弘安4)年に旧庵を廃して本格的な堂宇を建築、自ら「身延山久遠寺」と命名している。久遠寺は日蓮の弟子たちによって継承され、1475(文明7)年、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転した。武田・徳川の保護を受けて伽藍の整備が進んだ。総門から山門までの約1kmの参道は、古くからの門前町。名物のみのぶまんじゅうなど、門前みやげが手に入る。また「竹之坊」などの宿坊に宿泊し、精進料理を味わうことも可能だ。境内にある枝垂桜も有名。身延山山頂にある奥の院・思親閣へは表参道で所要2時間30分、裏参道で3時間。ツキノワグマも生息する山なので熊除けの鈴が必要。山麓から身延山ロープウェイを使えば7分で山頂に到達する。
下部リバーサイドパーク内にあり、戦国時代に栄えた湯之奥金山について展示。「湯之奥」とは、つまり下部温泉の奥にあった金山。金山を管理したのが武田氏の親族衆、穴山氏であることなどから、下部温泉が、金山とともに秘する存在、いわゆる「隠し湯」だったという説もある。展示室には、金の採掘から金塊になるまでを再現したジオラマがあり、当時の様子がわかる。また館内に設けられた水槽では、砂金採り体験も楽しめる。「初心者は砂金粒10粒を目標に」とのことだが、過去のチャンピオンは30分で100粒以上という人が2人いる。採取した砂金はペンダント(1200〜1400円)に加工することもできる。
明治9年に建てられた西洋風建築の小学校。藤村式建築と呼ばれる建物は、バルコニーや2段手すりがあり、当時としてはモダンなもの。明治21年に現在の増穂小学校の位置に移築。大正10年からは役場として利用されてきたが、昭和49年、役場新庁舎の完成で、現在の位置に移築、民俗資料館になった。1階には教室で使われていた備品、2階は当時の成績表などを展示。寺子屋時代から現在までの教科書や、かるたなども展示されている。
現在12代を数える江戸歌舞伎の最高峰、市川團十郎。その名門・市川家発祥の地が、現在の市川三郷町となった旧・三珠町だ。三珠町で生まれ育った初代團十郎の曽祖父、堀越十郎は、武田家の能の師匠だったと伝えられており、三珠町歌舞伎文化公園では、市川家の歴史やゆかりの品を展示している。9代目市川海老蔵愛用の鏡台や、7代目筆画「名と号と自画像」の軸、明治期の歌舞伎の台本などを展示するほか、『助六由縁江戸桜』の再現舞台などもある。
全国の印章の約半分が作られている「ハンコの町」市川三郷町にある、印章の資料館。展示室には、印章彫刻製作の工程を解説するパネルや、製造用具、象牙、メノウなど、あらゆる印材が展示されている。なかでも、中国の銅印1万376種もの印影を191冊に集めた『十鐘山房印挙』は、一見の価値がある。また建物の脇には、「不動如山」と書かれた巨大なハンコもある。
和紙の里として知られる市川大門で、必然的に発達した、書道。大門碑林(ひりん)公園では、この書道にちなんで、中国歴代の名碑14基を復元している。書道の宝典、書聖・王義之(おうぎし)の書を記した集王聖教序碑など、これら自然の丘陵に配された石碑は、「石に刻まれた古文書」ともいうべき、壮大なもの。中国の石を使って中国人技術者が彫ったものとか。公園内にはほかに、石鼓文、千字文、蘭亭序、楽毅論、十七帖、良寛の般若心経の書など拓本する採拓コーナーもある。
鰍沢町の中心部に位置する大法師山の中腹にある自然公園。甲府盆地の南西端にあたり、盆地を一望にできるほか、天気がよい日には富士山をはじめ八ヶ岳、秩父までも見渡せるすばらしい眺望が広がる。公園としての整備が予定された頃から、山全体に桜の植林も進められ、現在では2000本のソメイヨシノが咲き誇る桜のスポット。例年4月上旬には、地元鰍沢町による大法師さくら祭りが盛大に繰り広げられ、シーズンともなれば、多くの花見客で賑わう。「さくら名所100選」にも選定。
市川三郷(旧)にある、標高850m、周囲2kmの山上湖が四尾連湖(しびれこ)。4つの尾を連ねた龍の伝説が、名前の由来。静かな山間の湖で、明治期には「富士八湖」のひとつに数えられていた。湖畔ではキャンプも可能で、バンガローもある。また湖畔の旅館では、日帰り入浴やボート遊び、釣りなどが楽しめる。10月下旬〜11月上旬の紅葉の時期はいっそう美しい。
1561(永禄4)年、4度目の川中島の合戦で上杉謙信の奇襲を受け、肩に傷を負ったという武田信玄。そのとき信玄が訪れ、傷をいやしたといわれるのが、下部(しもべ)温泉。「あまりに早く傷が治ったので、上杉謙信も驚いた」というほど、薬効の高さが伝えられている。下部温泉で刀傷をいやした信玄は、領主の穴山信友に下部温泉の管理を命じた。このとき、信友が下部温泉の湯守に命じた文書が現在の「古湯坊源泉館」に残っている。戦国時代以前からあり、信玄も入浴したであろう巨大な岩風呂は「かくし湯岩風呂」として源泉館館内に現存、日帰り入浴もできる。泉質は単純温泉で、切り傷、やけどなどによい。
正式名を「下部共同福祉施設」というように下部温泉にある公営の共同湯。湯船は3〜4人が入れば一杯になる程度の小さなものだが、渓流を眼下にする。和室が4部屋あり、予約で貸切での利用も可能。

